【コラム】暗殺者の裏事情 その1(2回連載)
故マルコス大統領の抑圧政治と暗殺者ネットワーク

【写真】地鶏料理を作る友人B(故人)/2000年代半ばフィリピン北部山岳地帯にて撮影

栗田英幸(愛媛大学)

 鉱山という紛争地帯の調査に長く従事していると、暗殺者に殺害された事件のみならず、暗殺者を雇用したことのある人、暗殺者として雇用されたことのある人、暗殺者ネットワーク?を管理している人等、そのような関係者たちに話を聞く機会がある。あちこちで聞き齧ってきた切れ切れの内容ではあるが、それらを情報提供者の安全確保のために適度にぼかしつつ、この場で共有したい。
 本コラムに関して、内容および分量の関係により、今回の第一部と次稿第二部の2つに分割した。本稿第一部では、暗殺業を生みだしたエドサ革命以前の構造的要因、第二部では、アロヨ政権半ば以降の暗殺業の変化に関して、それぞれ私のフィリピン理解を手がかりにまとめてみた。なお、裏取りをしている訳ではないため、情報提供者の誤認・憶測・虚偽も含まれている可能性を心の片隅に置いて読んでいただきたい。

― エドサ革命の背後の武装闘争

 2月25日にフィリピンはエドサ革命36周年を迎えた。エドサ通りに集まった大衆による非暴力の活動がマルコスを国外に追い出す最後の引き金になったことは間違いない。しかし、エドサ革命に至るまで、特に1980年代に入ってから非常に多くのフィリピン人が武器を手に武装抵抗活動に参加したのも事実である。エドサ革命当時、約2万5000人の共産党軍事部門新人民軍(NPA)がフィリピン全国に展開していたとのフィリピン国軍の報告データから推測するならば、おそらく、訓練兵士・サポート要員を入れて、それ以上、もしかしたら数倍にも達する人数が、銃器の利用や殺害による変革を是とする訓練を受けていた、もしくは慣れようとしていたと言える。

― 武装闘争終了に伴う変化

 エドサ革命やその後のNPA兵士への社会復帰呼びかけにより、多くのNPA兵士や支持者が地下活動を中止し日常の生活に戻った。その結果、暗殺業の基盤となる次のようないくつかの社会的な風潮が作り上げられた。この風潮の多くは、作り上げられたというより、復活・強化されたと言った方が近いかもしれない。なぜなら、第二次世界大戦後に多くのフィリピン人が抗日戦線から日常生活に戻った際にも見られた特徴がそこには散見されるからだ。

― ゲリラ参加は勇気の証

 少なくとも1990年代半ばくらいまでの農村では、マルコス時代にゲリラとして政府に抵抗していた経験が「勇気」の証として認識される風潮があった。バランガイ(フィリピンの最小地方自治単位)選挙や市・町長選挙では、候補者が自分の勇気をアピールするために、「俺は民主主義のため、皆の生活のために、山に入って(NPAとして)戦った。あいつ(政敵)は何もしなかった臆病者だ」とか、「あいつ(政敵)はゲリラになって戦ったと言っているけど、それは嘘だ。俺は知っている。あいつは町で仕事をしていた臆病者だ」などと、声高に叫ぶ光景があちこちで見られた。
 余談になるが、故マルコス大統領が、抗日戦線に参加していたことを示す証明を米国からわざわざもらった(ゲリラ活動に参加していたような事実はないらしいが)という話は有名である。

― 暗殺業の一端を担う元NPAネットワーク

 暗殺事件の全国規模の蔓延は、それだけ暗殺者として活動できる人が多く、またそのネットワークが既に張り巡らされていることを意味する。そして、そのネットワークの一つとして機能しているのが、銃を使用でき、殺害の経験(もしくは殺害訓練の経験)を持つ元NPAである。そして、私が知る限り、結構多くの元NPAがNPAから逃げ出す際(逃げ出した理由は後述)に銃を持ち出している。

 1990年代末、フィリピンのとある鉱山プロジェクトにおいて活動家殺害未遂事件があった。暗殺者は畑で待ち伏せし、活動家を乗せた二人乗りバイクが通り過ぎてから慌てて姿を現し、走って追いかけながら銃を撃ち、当然のように失敗した後、ふらふらと走って逃げていった。あまりにもお粗末な暗殺未遂の顛末を酒の席でフィリピン人の友人(以下、友人Aと呼ぶ)に話したところ、次のような説明を受けた。
 「おそらく、暗殺者は、アルコール依存症と借金に苦しんでいる『仲間』(友人Aも元NPAであるため、元NPAの人たちを『仲間』と呼ぶ)だったのだろう。私も(友人Aは、山から下りてきたものの生活に困っている元NPAを何人も雇用しているため)何度も暗殺業の仲介人から、そのような(借金に困っていたり、暗殺を請け負っても良いと考えているような)元NPAの紹介を頼まれたことがある。アルコール依存症の人の場合、ジン1ダースくらいで依頼を受ける場合もある。ただ、成功する可能性も低いから、殺したいというより脅したい場合によく利用されている。拳銃を渡され、成功失敗を問わず1回の暗殺の試み(1発は拳銃を撃つ)で依頼は完了。だけど、渡された拳銃が安物だったり、自前の拳銃を土中に埋めて隠していたためにメンテナンスできてなかったりで、大事な場面に弾が出なくて焦って逃げ帰ってきたという笑い話も結構ある。少なくとも田舎では、元NPAが雇用されることが多い。それなりに暗殺経験のある者だと3万円から5万円(当時の日本円換算)くらい、田舎の町長レベルを狙うとなると10万円くらいが普通だと思う。」

 暗殺者の手腕や人数、どのような準備(バイクや銃の種類)をするのかによって、費用はピンキリである。労働争議や開発抵抗運動では、企業役員や政治家が抵抗する組織のリーダーに対して、「お前の命は500ペソだ」「お前なんか2000ペソも払えば暗殺できる」と、あまりにしばしば発言しているが、それだと目も当てられないほど成功率の低い暗殺者しか雇えない。暗殺業に関して少しは情報を持つ抵抗組織のリーダーであれば、そのような金額を提示して脅そうとする行為は、失笑ものである。

― 隠れた元NPAのネットワークと互助組織

 写真は、友人Aの元NPA時代の部下(以下、友人Bと呼ぶ)で、友人Aと一緒にNPAから逃げ出した後、友人Aが始めたビジネスを主に現場の人員管理の面で支えている。Bの地鶏料理は絶品で、彼の料理と日本のお土産を肴にビールやジンを飲み、そこに集まる元NPAの人たちも交えてさまざまな話を聞かせてもらうのが、私にとってこの地を訪れる楽しみの一つであった。ちなみに、この地鶏料理は、羽の部分を拷問するかのように叩き、鳥の恐怖を煽ることによって旨味が増すと言われており、動物愛護協会から批判の的になっている。なぜ彼の料理が特別美味しいのかを聞く人は多く、「過去に国軍に囚われてこの地鶏のような拷問を受けたことがある」と答えるのが彼の持ちネタであった。
 この飲み会では、そこにはいない元NPAの友人たちの近況や過去の山の中(彼らはジャングルと呼ぶ)での話が話題のメインとなった。コリー・アキノ時代の対NPA戦略として情報戦略が有名だが、この情報戦略によってNPA同士が疑心暗鬼になり殺し合いも頻発化した当時の出来事は、多くを笑い話にしてしまう彼らにとっても苦すぎる思い出のようであった。そこに集まる彼ら全てが、いつ仲間から殺害されるかもしれない状況に耐えられずにNPAから逃げ出してきている。
 近況については、箇条書きにするが、次のような内容が私の調査ノートに記されている。
 ・Hが地方政治家のボディガードになった、IがNPAに復帰した、Jが政府軍とNPAとの交戦で死んだ。
 ・Kが生活に困っているがアルコール依存症で働けないので息子に仕事(友人Aの商売)を斡旋してやろう。
 ・今度の仕事で誰(元NPA)に仕事を依頼しようか。
 ・Lが仕事で困っているが警察関係で顔の効く者はいないか? Mの娘婿が警察の適切な部署にいる。今度頼んでみよう(当時の私のノートには、「警察の職権濫用では?」と書かれている)

 暗殺に関しても、私のノートには、
Nが金に困って汚い仕事(暗殺)を請け負って警察に射殺されたという出来事に対して、
 Q)本当に暗殺を請け負っていたのか?
 A)もしかしたら暗殺ではなくて暗殺後の犯人役を引き受けだけかもしれない(その場合、暗殺者は別の人)。あいつは身体が悪くて暗殺なんてできなかったはずだ。
 Q)でもNは警察に射殺されたのだろう?
 A)証拠隠滅だったのかもしれない。クレイジーな警察だったのかもしれない。
 Q)Nの家族は?
 A)いなくなった。怖くて逃げたのか、既にお金をもらっていてどこかに移動した後なのかは分からない。

 暗殺業が、殺害だけでなく暗殺後の偽犯人の準備にも携わっていることを窺い知ることのできる会話である。そして、元NPAネットワークが情報共有と社会復帰のための互助組織として機能している点も重要である。友人Aは自分の事業がある程度上手く行っているために暗殺業と連携する必要はない。友人Aによると、このような隠れた互助的な組織はおそらくフィリピン各地、特にジャングルの側に存在する。だとするならば、私は聞いたことないが、暗殺業の実質リクルーターのような仕事をしている互助組織もおそらくあるものと推測できる。

― 賄賂と暗殺

 次は、先の友人Aとはまた異なる元NPAの友人Cから聞いた話である。Cの友人(以下D)が受け継いだはずの土地がいつの間にか別のビジネスマン(であり、とある町議会選挙に当時出馬中でもあった)の名義に置き換えられていた。Dは、地方裁判所に告訴しようとした。だが判事をしている知り合いから、そのビジネスマンはフィリピン国軍の将軍の庇護を受けているため、その将軍を説得しない限り裁判で勝ち目はない(もしくは、判事が将軍に殺されてしまう)と言われた。そこでDはその将軍に対し、多額の賄賂と土地を無事に受け継いだ折にはその一部の利益を提供すると申し出た。将軍は、そのビジネスマンを表立って裏切ることは体裁が悪いので、そのビジネスマンが生きているうちは難しいと答えた。
 そして、DはCに暗殺者の仲介人の紹介を頼み、仲介人と渡りをつけた。その後、選挙中にそのビジネスマンは銃で殺害され、その翌年、Dは裁判に勝利した。Dは、かなり大きな土地の相続を果たした。暗殺者として雇用された元NPAの人は、その友人Cのところに出入りしていた者らしく、(中古の)バイクを新たに手に入れていた。おそらく、そのバイクも成功報酬の一部なのだろうが、殺害の証拠としてビジネスマンの親族に怪しまれたら報復として殺害される危険があるため、そのバイクを売るなり、別のものと交換するなりするよう、Cは元NPAの暗殺者にアドバイスするつもりだと語った。

― 殺さないと殺される社会では、暗殺も社会正義の手段?

 上記AとCのそれぞれに、私は、「NPAとして社会のために命を投げ打って活動していた人たちにとって、暗殺を仕事とすることに抵抗はないのか?」と聞いたことがある。その解答は、おおむね次のようなものであった。「この国では、正義は通らない。誠実な生活を送っていても自分が殺さなければ逆に殺されるといった状況に陥ることは多い。友人たちが携わる殺害は、そのほとんどが、そんな社会を支えている政治家やビジネスマンをターゲットとしているはずだ。」
 「社会正義を執行していると信じて行っているのか?」とAに聞いてみたところ、「そう思わないとやっていられないくらい、彼らは精神的に疲弊している。人生を投げ打って山に籠り、帰ってきたら居場所がない。山の中にいた頃は、辛くて苦しくて町での生活に戻りたかったはずなのに、社会正義を執行していたと信じられる当時のことを美化するようになり、いま自分のできる社会正義だとして暗殺者の仕事を請け負ってしまうのだろう」との寂しそうな答えが返ってきた。
【暗殺者の裏事情 その2 へ続く】

補足:これまでの文章だけだと暗殺者の多くが元NPAとの誤解を生じさせる恐れがある。実際には、元NPA以外にも多くの人間が暗殺者として利用されている。ただ、元NPAは少なくない人数が武器も一緒に持ち帰っており、能力的にも十分であるため、そのような人たちがネットワークで繋がっている点で、暗殺仲介人にとって非常に便利であったことは間違いない。私が聞いた限りでは、という限定的な情報からの推測になるが、暗殺業界の棲み分けや多様性については、次稿「暗殺者の裏事情 その2」にて整理する。

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