【Tita Seikoの侃々諤々】黒い人が住む島

【写真】サトウキビ農場で働く人びと,カラバオ(右下)

大橋成子(ピープルズ・プラン研究所、APLA理事)

先日ある大学でフィリピンの歴史について話をしていた時、一人の学生からこんな質問が出た。「フィリピンの島々の名称は、ルソン、ミンダナオ、パラワン、セブ、ボホール、ミンドロなど先住民族由来の名前がほとんどなのに、なぜネグロス島だけネグロというスペイン語なのですか?」

確かにそうだ。そもそもフィリピンという国名はスペイン人によって付けられたものだが、あらためて地図を開くと、いくつもある島の中で、ネグロス島だけが外来語に由来している。そのわけはこの島特有の歴史にあった。

ネグロス島は、北のルソン島と南のミンダナオ島に挟まれた大小さまざまな島があるビサヤ地方に位置する。日本の四国より少し小さい面積に人口440万人が住み、島の真ん中にでんとそそり立つカンラオン火山(2500㍍級の活火山)を境に西州と東州に分かれる。

私が初めてネグロス島を訪れたのは1991年。飛行機の小さな窓から見えた島は、大きく整然と区画された農地が広がり、私の故郷の北海道を思わせる光景だった。「この一面みどりの島で、かつてなぜ飢餓が起きたのだろう?」それが、最初の素朴な疑問だった。

「砂糖の壺」と言われる西ネグロス州は、現在もフィリピンの砂糖総生産量の54%を生産している。30年前は農地面積の6割をサトウキビ農園が占めていた。その後の農地改革や商・工業施設の増加によって減少したものの、都市部を離れて北部や中央部を車で走れば、今でもサトウキビ農園が果てしなく続く風景に出会う。

35度近くまで気温が上がる炎天下、ボロボロになったTシャツを頭や顔に巻き付けた人たちが、無言で広大な農園の一画ごとサトウキビを切り倒していく。倒されたサトウキビは別の人たちが肩に担ぎ上げ、20㌧は満載できるトラックに積み上げる。

刈り取りが終わった畑では、女と子どもたちがケーン・ポイント(サトウキビの苗)を慣れた手つきで一定間隔に植え付け、素手で化学肥料をまく。ここではすべてが手作業。しかも彼/彼女たちは土地を所有する農民ではなく、わずかな日当で働く賃金労働者だ。自分たちのつらい仕事を例えて、労働者たちは「苦い砂糖」という言葉をよく使う。私が飛行機から眺めた「一面みどり」の地べたでは、こうした労働が延々と続いていたのだ。

1521年、スペイン帝国艦隊を率いたマジェランがセブ島に漂着した時から、フィリピンの植民地化の歴史は始まった。マジェランは島民を洗礼によって服従させようとして首長ラプラプの反撃で殺害されたが、その後度重なるスペインの遠征により、彼らが「東洋の真珠」と呼んだ列島は次々と侵害されていった。そもそも統一国家も国名も軍隊もなく、豊かな共同体を形成していた南洋の列島は、当時のスペイン国王フィリペ2世の名をとって「フィリピン」と名付けられたのである。

当時、ネグロス島はうっそうとしたジャングルに覆われ、先住民族はその地を「ブグラス」と呼んでいた。「大陸から切り離された」という意味だ。1965年、「ブグラス」は遠征を続けていたミゲル・ロペス・デ・レガスピ率いる16人のスペイン人によって「発見」され、褐色の先住民族が住んでいたことから、黒い人の住む島「ネグロス」と名付けられた。

スペインは他の地域と同様、ネグロス島にもエンコミエンダ制(スペイン軍人などに徴税と税収の一部授受の権利を、現地住民には強制労働の賦課を与えた制度)を導入したが、十分な貢税を徴収できるだけの住民がおらず、先住民族の抵抗もあって18世紀後半には消滅し、本格的な「開拓」は19世紀後半になってから着手されたといわれている。そのきっかけは隣のパナイ島イロイロ港の開港だった。

ネグロス島から高速艇で約1時間。パナイ島イロイロ港に着くと、イギリス人ニコラス・ローニーの大きな銅像が港を見下ろすように立っている。当時フィリピン政庁はイギリスをはじめとする諸国から市場開放を求める圧力を受けていた。ローニーはパナイ島の織物業の貿易業務に携わっていたが、商売は華人に独占されていたため、新たな輸出商品として注目したのが砂糖だった。彼は、隣のネグロス島が砂糖キビ栽培に適した広大な「未開地」であることに気づき、スペイン人らと共に、400㌶あまりの土地を最初のサトウキビ農園にしたと言われている。ローニーと同様に、パナイ島の織物業を華人に独占されていたスペイン系・華人系メスティーソ(混血)たちも、新天地を求め、親族や近隣の小作農たちを引き連れてネグロス島へ渡った。

彼らは、ネグロス島で広大な土地を手に入れ、アセンデーロと呼ばれる大農園主に変わっていった。そのやり方は、スペインの王領地や住民が慣行的に耕作していた土地を囲い込み横領するか、土地を担保に農民に高利の貸付けを行い、返済するまで小作として働く制度を取り入れたことで、広大な土地が一握りのアセンデーロに集中していった。

19世紀後半、パナイ島のイロイロ州周辺の人口は60万人だったのに対し、ネグロス島はわずか15万人。しかも人口は島全体に散らばっていたため、アセンデーロは大量の労働力をパナイや他の島から獲得する必要があった。20世紀に入ってもこの労働力移動は止まらず、砂糖ブームで湧いた1970年代まで続いたといわれている。

アラネタ、ラクソン、ハランドーニ、リサーレス、ロクシン、モンテリバノ、ロペス・・・名だたるアセンドーロたちは今日にいたるまで、ネグロスの経済を握る大地主、政治家、企業家たちだ。バコロド市内を碁盤の目に走る道路にもファミリーの名が付けられている。

歴史に「もしも・・」という言葉はないが、それでも、もしニコラス・ローニーが砂糖貿易に目を付けなければ、もし隣の島の「未開地」に気づかなければ、ネグロス島の歴史はどう変わっていたのだろう。遅かれ早かれ、別のヨーロッパ人が同じことを繰り返したのだろうか。

現在まで続く砂糖労働者の貧困、つらい労働、無視される人権、砂糖産業がこけたら島の経済が成り立たなくなる脆弱な産業構造・・・19世紀から引き継がれたネグロス島の特殊な事情は、21世紀の今もほとんど変わってはいない。

【参考文献】
永野善子,1990,『砂糖アシエンダと貧困 フィリピン・ネグロス島小史』勁草書房.
レナト・コンスタンティーノ,鶴見良行監訳,1977,『フィリピン・ナショナリズム論』勁草書房.
APLA,2011,「フィリピンの砂糖産業は今」手わたしバナナくらぶニュース,No.205.
Violeta B.Lopez-Gonzaga, 1991, THE NEGRENSE A Social History of an Elite Class, Institute for Social Research and Development, University of St. La Salle, Bacolod. 

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