「Tita Seikoの侃々諤々」

【写真】カネシゲファーム第1次研修生(当時16~17歳)=2009年, カネシゲファームにて, 大橋成子撮影. ジョネル(右から2人め,今では農場の養豚を一手に担当),エムエム(左から2人め,販売と経理と事務局長を担当).

【コラム】小さな農場から生まれた若者たちの夢

大橋成子(ピープルズ・プラン研究所、APLA理事)
(記事を読む所要時間:約4分)

ネグロス島中央部に聳え立つカンラオン火山の麓の村に、こんもりと緑が生い茂るカネシゲファーム・ルーラルキャンパスがある。一面無機質な砂糖農園に囲まれた5ヘクタールの農場は、早朝から鳥がさえずり、爽やかな風が吹いている。ここは学校に行きたくても行けなかった農村の若者たちが運営する農場だ。養豚を中心に、豚舎からの糞尿水を液肥に変えて有機野菜・米・果樹を生産し、地元の市場や住民たちに販売している。現代の若者らしくフェースブックを駆使してお得意さんに連絡をとる。30頭の母豚から生まれる子豚が主な収入源で、2009年設立から14年たった現在、年間200万ペソの売り上げを達成できる農場に成長した。

30代が中心の6人の農民スタッフとネグロス島各地から志願してくる10代~20代の研修生がそれぞれの分担をこなす。彼らは農地改革で土地を手にした元砂糖労働者の子供たちだ。都会に憧れ出稼ぎに行く若者が圧倒的に多い農村で、彼らは、親たちが獲得した土地を守り、農業で生活を支えるために、この農場で農法を学び、仲間を作り、研修後はそれぞれの地域で有機農業に取り組んでいる。20~30年前には考えられなかった光景だ。自立農業と言うのは容易いが、ネグロス島の特殊な事情の下、親世代の壮絶な土地闘争がなければ、こうした風景は生まれなかった。

― 困難をきわめた農地改革

フィリピンの歴代大統領が選挙公約にまず掲げてきたのが「農地改革」。しかし30%の富裕層が70%の富を独占する格差社会では、政治家自身が大地主であり、多国籍企業を相手に財を成してきた歴史の中で、農地改革は農民にとって遠い夢だった。

70年代、マルコス・シニア大統領は米・トウモロコシ生産地に限った改革を実施したが、農地面積の50~60%が大地主所有の砂糖プラテーションというネグロス島は、87年コラソン・アキノ大統領が「ピープルズパワー」に押し上げられて制定した包括的農地改革法によって、初めて農地改革の対象地となった。以来、土地の解放を求める砂糖労働者の闘いは現在まで続いている。

立派な法律はあっても、それを施行する国家予算の配分があまりにも乏しく、農地改革省、土地銀行、司法関係者への大地主の圧力で、手続きは遅々として進まず、地主が雇うブルー・ガードと呼ばれる私兵が、農地改革運動のリーダーたちを簡単に殺害してしまうケースが頻発した。

ネグロス島は全国的にも農地改革が一番遅れた地域だ。土地をめぐる人権侵害は枚挙にいとまがないが、それでも長い年月の闘いを経て、完全とはいえなくても徐々に改革は実現してきた。最初は誰も見向きもしない不毛な土地や山間部から始まり、砂糖労働者の執拗な闘いに根負けした地主が自発的に政府に提供した土地が主な対象地だった。行政による強制執行もあったが、肥沃な農園は未だ大地主が支配し、法律の隙をついて農地を住宅地建設や商業施設に転換するケースが増大した。

― 農業労働者が農民になるということ

多くの犠牲を払って手にした念願の土地登録証だったが、農地改革後、農園労働者は予期せぬ難局に直面した。「自営農民を育成する」という政治的意思が全くない政府からは、補助金や技術指導はほとんど得られない。これまで、エスパディン(砂糖キビを刈り取る刀)一本で、指示された仕事をこなすだけの労働者が自営農民になるということは並大抵のことではなかった。土地に見合った作物や水利や売り先を考え、植え付けから収穫まで最短でも3か月待たなければならない。労働者時代はいくら安くても賃金が定期的にもらえた。「農民は一夜にして労働者になれるが、労働者は簡単に農民にはなれない」とつぶやいた元砂糖労働者の言葉は重かった。結果、土地登録証を地主に返還し、農園労働者に戻ってしまうケースが頻発した。

さらに、後継者問題も深刻だった。農村の若者は都会への憧れが強い。マニラやバコロド市のコールセンターやIT企業で働く同世代に憧れても、高卒や小卒では建設現場や工場労働者、警備員、家政婦や売り子の仕事が精一杯だ。都会に出ても、結局疲れ果てて地元に戻るか、そのまま音信不通になるか・・・。こうした状況に危機感をもったリーダーたちは、なんとしても土地を守り、次世代に繋げるための方策を協議した。そこで構想されたのが、カネシゲファーム・ルーラルキャンパスだった。

【写真】設立時は放置されていた土地だったが、今では様々な野菜で埋め尽くされている=2016年,APLA提供.

― 「農民は無学で貧乏」という価値観からの解放

農場に集う若い農民たちは、幼少期に親世代の苦労を見て育った子どもたちだ。高校や大学へ進学する夢はかなわなかったが、ルーラル・キャンパスいう名称にあるように、農場では同じ志をもつフィリピン国内やアジアの農民たちとの交流・学びの場を作っている。この企画は、アジアの農民ネットワークをめざす(特活)APLAが応援してきた。

数年前、ルソン島北部の先住民族イフガオの青年たちが農場を訪れた。イフガオといえば、2000年前から見事な棚田でフィリピンの稲作文化を継承してきた農業の大先輩だ。その青年が初めてネグロス島の砂糖農園を見て、「土地をもてない耕作者に胸が苦しくなった。我々にとって土地は命なのに・・」とつぶやいた言葉に皆ショックをうけた。その後、交流会では農業に対する様々な思いが語られた。

「土地は命!という考えが胸にささった。ネグロスでは土地は闘って獲得するもの、もしくは売買の対象としか見ていない人たちが多いから」

「僕は高校中退なので、しかたなく砂糖農園で働いた。農業は貧乏で無学な者がすると思っていた。でも、この農場に来てから仲間ができ、自分が世話する子豚が毎日のように売れて、今では看護学校に通う妹の学費を援助している。軽トラの免許もとった。大学に進学した友達を嫉妬することもあったけど、彼は卒業してもまだ仕事がない。免許証まで持っている僕を羨ましい!と言ってくれた」

「僕はマニラの食堂で住み込みの仕事をした。給料が少ないから毎晩店のテーブルで寝た。そのうち身体を壊してネグロスに戻ったら、親からこの農場のことを聞いた。僕にできるのは農園の仕事くらいだと思っていたけど、この農場で僕の人生は変わった。一生の仲間と家族ができた。子どもは皆で育てている。農村に仕事がないと思ったのは間違いだった。農業をやっているといろんな仕事が生まれる。今は農場の経理や販売、事務全般を任されているんだ。」

最初は無口だった青年たちから次々に語られる言葉は感動的だった。彼らが自身で獲得した自信や尊厳を絶対つぶすことはできないと思った。土地は命。農業は平和な心をもたらす。

ネグロス島は、40年前の砂糖危機に喘いだ時代から多くの血が流れた闘争の歴史がある。現在その状況は変わりつつあるが、未だ社会の不正義を訴える人々への殺害や人権侵害は止まらない。人権を守る闘いは平和を創り出すプロセスと同じ地平にある。これからの社会を担う若い世代のために、平和な空間がもっと広がることを願ってやまない。

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Painting:Maria Sol Taule, Human Rights Lawyer and Visual Artist

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