【Tita Seikoの侃々諤々】
解放の神学とキリスト教基礎共同体

【写真】マルコス(父)大統領による独裁政権を終わらせるために、市民の解放、包括的農地改革計画の実行を求めて闘う民衆と神父ら,(左下写真内の右)エンぺスタン神父,(右下写真)フォーティッチ司教/via Rev. Fr. Romeo E. Empestan, 2017, The Struggles of the People and the Church of the Poor in Negros from the 70s to 90s, Philippines: St. Ezekiel Printery & Publishing House.

大橋成子(ピープルズ・プラン研究所、APLA理事)

1月7日、半世紀にわたり人権侵害に抗し、正義を求める運動の最前線にたってきたロメオ・エンぺスタン神父が逝去した。詳しい病名は発表されていないが、晩年は長い闘病生活を送っていたと聞いた。彼は70年代、フィリピン全土に広がったキリスト教基礎共同体運動のネグロス島での先駆者だった。

※キリスト教基礎共同体(BCC):人びとの信仰の中心としての教会を核とし、民衆の自律的で分かち合いを旨とした活動をする共同体。解放の神学と一体となって、抑圧されてきた民衆を解放する拠点となった。

― ラテンアメリカから広がった「解放の神学」

1972年に施行された戒厳令によって暗黒の時代を迎えた時期、自由と解放を求めるフィリピンの民衆運動は、ラテンアメリカのキリスト者から広がった「解放の神学」という新しい思想潮流に出会った。

1969年、コロンビアでラテンアメリカ全司教会議が開催され、教会は社会の不正義に目をつむるのではなく、「貧しい者、抑圧されている者と連帯する」という立場が打ち出された。

「キリストの新たな顔、ナザレのイエスを再発見し、キリストは教会の向こうに葬られているのではなく、民衆の中にいることを再発見すること。教会はお堂ではなく、神の民であり、教会は貧者の側にたたなければならない」(アジア太平洋資料センター、1985年)というラテンアメリカの聖職者たちから発せられた宣言は、アジアでは独裁政権下にあった韓国とフィリピンの先進的なキリスト者にすぐさま浸透していった。

フィリピンとラテンアメリカは、何百年も続いたスペインの植民地時代、その後のアメリカの支配を経て、独立後も軍事独裁政権の下で収奪されるという同じ歴史を歩んできた。キリスト教徒が人口の大多数を占めることも共通している。イエス・キリストが受けた受難(パッション)を、当時の政治囚や人権を蹂躙された人々は、自分たちの経験と重ね合わせた。

当時、大衆の不満がいつ爆発するかわからない状況にあり、「社会的火山」とまで呼ばれたネグロス島では、「教会は貧者の側に立つ」と説いた「解放の神学」がフィリピンのどの地域よりも先がけて人びとの中に浸透した。その先頭にたったのが、アントニオ・フォルティッチ司教(2003年没)だった。彼は元々、裕福な地主側につく聖職者だったが、「解放の神学」に触れることで砂糖農園の労働者の状況に心を痛め、教会で祈れば天国に入れるという古いあり方から、「現実の世界に神の国を作る。その現実が不公平と不正義にまみれているなら、神の法律に従って秩序を正し、変革する」と唱えた。

さらに、解放の神学に共鳴したエンぺスタン神父を始めとする多くの神父やシスターたちは、教会が「貧者の側に立つ」社会運動を実現するために、各地の教区に貧しい者たちを中心にしたBCCを組織し、ストライキや抗議運動の最前線にたって、労働者たちを支援した。

私が初めてネグロス島に行った1991年、住む部屋と食事の世話をしてくれたのが、ラ・カルロータ市にあるラ・グランハ教会だった。ネグロス島の中央部に聳え立つカンラオン火山の麓に広がる12カ所の山間地で作られるバナナを、日本の消費者に民衆交易という形で輸出するため、生産者協会の組織化を手がけていたのが、当時テレンス・ビリアヌエバ神父がいたラ・グランハのBCCだった。この教会で私は初めてエンぺスタン神父に出会った。彼は時折、バコロド市からラ・グランハ村を訪れ、テレンス神父と共にミサを行っていた。

小さな教会の女子・男子用に分かれた部屋には、近隣の農園から来た、高校に満足に通えない少年や少女たちが寝泊りしていた。彼(女)たちは食事や掃除当番をこなし、ミサでは見事な聖歌隊に変身して、神父の活動を支えていた。山間部から何時間も歩かなければ教会まで来ることができない農民たちのために、毎週神父は子どもたちと一緒にオンボロなジープでガタガタ道を登り、各村を廻ってミサを行った。通常はミサの後に神父に語る「懺悔」があるが、そこでは懺悔の代わりに農民たちは地主の横暴や軍の嫌がらせなど様々な問題を語りだした。神父はその現実を聖書に照らして読み返し、自分たちはそれぞれの問題にどう立ち向かうか、という熱心な議論が続いた。BCCがめざす意識化運動を目の当たりにした経験だった。

ラ・グランハ教会には、他では見ることのできない興味深い聖週間(ホーリー・ウィーク)の取り組みがあった。田舎では、キリストが復活する日曜日(イースター)に「タルタル」と呼ばれる特別な行事がとり行われる。キリストがローマ軍に逮捕・拷問され、十字架を背負ってゴルゴダの丘ではりつけにされるまでの受難(パッション)を、信者たちがキリストやローマ軍の役になってドラマ化するのだ。

しかし、ラ・グランハ村のタルタルは他とはかなり違ったものだった。百人を超える信者たちは教会の裏にある丘まで演者たちを取り巻くようにして行進した。キリスト役は血にみたてた赤いペンキを顔や体に塗り、ローマ軍役は槍や楯でキリストを大勢の前でなじる。聖書ではゴルゴダの丘につくまでにキリストは3回倒れたというが、そこではキリスト役がその都度せりふを語ったのだ。

1回目に倒れた時の言葉は「ああ、可哀そうな農園労働者たちよ。米代にも足りない賃金で絞られ、労働はあまりにもつらい・・・」2回目に倒れた時、グラナダのマリアに扮した女性がキリストに水を与えると、「ああ、あわれな女たちよ。あなたたちはこの社会でこんなにも抑圧されている・・・」そして3回目は、カンラオン火山を指さして「可哀そうな山よ、森よ、川よ。神が創造した自然と環境が強欲な人間によって壊されていく・・・」弱ったキリスト役から放たれた言葉を集まった信者たちはじっと聞いていた。

今やキリスト教界会体がすっかり保守化してしまった、と多くの人は言う。ラ・グランハでもキリストのせりふはもう聞くことはできない。BCC運動もかつての勢いは無くなってしまったが、蒔かれた種が枯れていないことは周囲の仲間たちの経歴を聞けば分かる。当時各地の共同体で洗礼を受けた若者たちは、壮年になった今も多くのNGOや社会運動の現場で活躍している。

【Source】

アジア太平洋資料センター,1985年,『世界から』24号.
ルーベン・アビト/山田経三編,1986年,『フィリピンの民衆と解放の神学』,明石書房.
ニアール・C・オブライエン著,1991年,『涙の島 希望の島 ネグロスの人びととある神父の物語』,朝日新聞社.

【書籍紹介】

Rev. Fr. Romeo E. Empestan, 2017, The Struggles of the People and the Church of the Poor in Negros from the 70s to 90s, Philippines: St. Ezekiel Printery & Publishing House. (ロメオ・エンぺスタン神父の回顧録)

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