【コラム】ネグロス民衆の拠り所だった
キリスト教基礎共同体(BCC)
~地域の人びとと神父たちのたたかい~(2)

【写真】ネグロス島での二アール・C・オブライエン神父=本人の著書”Revolution from the Heart”表紙より

平井 朗

 4月23日掲載の、本稿(1)では、二面性を持ったフィリピンのカトリックが、解放の神学を背景にネグロス島民衆の生存のためのたたかいの中で果たしてきた役割を概説したが、本稿(2)では、その場となったキリスト教基礎共同体(BCC)がどのように生まれたのか、神父たちと地域の人びとがたたかったのかを、中心の当事者オブライエン神父の自著を通して紹介する。

― こころの革命

 ”Revolution from the Heart”(邦訳『涙の島 希望の島―ネグロスの人々とある神父の物語』)によれば、著者ニアール・C・オブライエン神父は1939年、アイルランド生まれ。1957~64年、コロンバン神父宣教学校に在籍、63年、宣教司祭に叙階。64年、コロンバン会からフィリピンに派遣され、以後、東ネグロス州刑務所に投獄され、1984年、時の大統領マルコスによって国外退去を命じられるまでの約20年間をフィリピンで働く。この間、翻訳、執筆に励み、黙想会を持ち、農業協同組合を始め、非暴力によって正義を実現する小さなキリスト教基礎共同体を作り上げた。
 神父がマニラに着いた1964年は、おりしも第二ヴァチカン公会議(1962~65)の開催中であり、それまでラテン語で行われていたミサをそれぞれの国語で行い、宗派の違いを超えて神の教えを実現しようという方針が出されていた。ヨハネ教皇は回章『母であり教師である教会』『地上の平和』で貧しい人々の味方に立ち、世界平和の追求を教会の不可欠な一部と見なしていた。カバンカランに着任し、イロンゴ語を習得した彼はシパライに赴任した。
 農村で子どもの飢餓の現実に接した彼は、民衆の貧しさと何としても真剣に取り組まねばと決意、地元の人びとから生まれたサ=マリア黙想会に触れ、神父のいないミサ、言葉の礼拝奉仕=パニンバホンをサ=マリアに取り入れることを始めた。1967年、教皇パウロ六世の回章『諸国民の進歩』によって、貧困を構造的不正義として立ち向かうべきことが公布された。

 私(平井)はネグロス島の山間部を歩いて村の人びとに尋ねたが、遠隔地の村では神父が巡回してくることは実際極めて稀で、礼拝堂や民家の庭先に人びとが集って行われるパニンバホンは福音を伝えるために非常に重要な役目を果たしている。信仰の主体は誰なのか。ある集落で、信者でもない私がパニンバホンを見学していると、突然英語の聖書を手渡されて「心に残る一節を読んで、語れ」と言われ、聖書の一節と人びとの生活を重ね合わせて、汗をかきながら語り合ったことが思い出される。

― アシェンダの現実とマルコスの戒厳令布告

 製糖工場の労働争議で、経営者と労組(全国砂糖労働者組合=NFSW)の板挟みになり、オブライエン神父が有力者たちと距離を取り始めた1972年、任期切れで権力を失うことを恐れたマルコスが人身保護例を停止、全土に夜間外出禁止令を布いた。マスメディアを閉鎖し、軍を出動させて自ら総司令官となった。戒厳令が布告された。社会運動の前線にいるほとんどの人たちの逮捕命令が出るという噂が流れ、改革派のルイス・ジャランドニ神父らも地下に潜った。戒厳令は、オブライエン神父の多くの友人たち、改革派の人びとを革命家に変えた。憤慨した何千人もの学生たち、多くの神父たちは新人民軍(NPA)の拠点、山岳地方に走ることになったのである。
 一方で、キブツにヒントを得、バコロド司教区のフォルティッチ司教や国際的な支援も得て、働く人だけが利益を得られる協同組合農場が生まれた。しかし、そんな中、友人の息子が貧困のため犯罪に巻き込まれて殺されてしまう。また双子の未熟児を亡くした後、産後の肥立ちが悪く医者にかかることもないまま亡くなった友人の妻。個人としては進歩的で善人な農園主が労働者やサカダを搾取するという「自分の義務に忠実」であることを見、機構そのものが徹底して腐っていたこと、構造的不正義に神父は目覚め始めたのだ。
 戒厳令布告以来、政府の情け容赦ない攻撃のなかでほとんどの労組が屈服したが、NSFWは教会に強力に支援されており、攻撃に屈せず、農園労働者を組織するためにアシェンダに入って働いていたが、農園主との交渉は困難を極めた。戒厳令は貧しい人々を窮地に追いやったのである。

― 休暇で故郷へ、そして新たな任地では

 1976年、休暇で故郷アイルランドへ帰る途中に、イスラエルのキブツに滞在したが、占領地の前進基地として政府に利用されているに過ぎないと失望。旅の途中でマルクスを読み、休暇後ネグロス島の山岳地方カンドニへ戻ってきた。土地紛争にからんで小農が殺されるような土地。カンドニにはフォルティッチ司教とルイス・ジャランドニ神父が作った共同農場があった。ルイスは社会活動をしながら何百という裁判に関わり、その裕福な一門が持っていた広い土地の所有権を、貧しい人たちの保釈金として使い果たした。
 ある日ルイスが農園でストライキ中の人たちと話していると、地元警察の完全な協力を得ている農園のガードマンたちに銃撃された。排水溝に飛び込んで弾を避けながら、彼の心は決まった。革命に参加しよう。ルイスは人びとから非常に尊敬されていたので、彼ほどの人が革命に参加するのだからと、ネグロスの教会の人たちは革命を正当なものだと考えるようになった。
 木を伐り尽くされた山地にはサトウキビが姿を見せ始め、低地の有力者たちによる「土地横領」、山地の収奪が国家警察軍と一体となって行われた。この兵隊たちは「取り締まり」に立ち寄った際、民衆から物を盗み、残虐行為を行う。もはや民衆は地元の主任司祭を除いて頼っていくところはNPA以外にない。

 カンドニで暗中模索していたオブライエン神父。制度全体が腐敗しているのだと確信し、宗教面での対応だけでは不十分であり、ときにはそれが問題を増やしさえすることが分かった。自分たちの学校もそうだ。カリキュラムはマルコスに改造され、彼の「新社会」イデオロギーを具体化するために書き換えられた。学校で教えることは生徒たちに消費欲求を生み出し、農業という生き方を静かに“殺し”た。
 そんなある日、小教区の妊婦がコレラに罹り、無意味な借金だけを残して亡くなった。制度そのものが徹頭徹尾腐敗していた。カンドニを去る前に、コロンバン会総会のニュースがマニラから届いた。私たちの目標は、貧しい人たちのうちでも最も貧しい人びとに仕えること、あらゆる形の不正義と戦うことである。彼が何をすべきかは、さらにはっきりと焦点を結びつつあった。

 次回以降、いよいよキリスト教基礎共同体形成へと進みます。さらに、地元フィリピン人神父たちと地域の人びとのたたかいをふり返ります。

〈Source〉
Niar O’brien, 1987, “Revolution from the Heart”, Oxford University Press.
二アール・C・オブライエン(大窄佐太郎・大河原晶子訳), 1991, 『涙の島 希望の島―ネグロスの人々とある神父の物語』朝日新聞社.
平井朗, 2007,「脱開発コミュニケーション~国際協力における市民連帯の平和学をめざして~」フェリス女学院大学2006年度博士学位論文.

〈筆者紹介〉

ひらいあきら。立教大学大学院異文化コミュニケーション研究科、元特任教授。専門は平和学。現在、NPO法人 ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会事務局。
2002年よりラグランハの人びとのお宅にお世話になりながら、サトウキビ・アシェンダに通い、カルバリヨへのエクスポージャーを通して、平和をめざす脱開発コミュニケーションを提唱。

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Painting:Maria Sol Taule, Human Rights Lawyer and Visual Artist

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