【コラム】カルバリヨ 西ネグロス州農村の草の根民衆の演劇を通した抵抗

【写真】カルバリヨの早朝、カルバリヨの丘に登る人びと=2021年4月2日、ラグランハMercedes Golez Seloterio撮影

平井 朗

 フィリピン西ネグロス州ラカルロータ市バランガイ・ラグランハを中心とする、セント・ヴィンセント・フェレール(SVF)小教区では毎年イースター聖週間のグッドフライデーに、少々ユニークなキリスト受難劇「カルバリヨ(Kalbaryo)」が行なわれている。COVID-19パンデミックの中、今年も行われた。

― カルバリヨの起源

 マルコス独裁体制末期の 1985 年、カトリック教会バコロド司教区は BCC(Basic  Christian  Community=キリスト教基礎共同体)の展開を目的とした伝道チームを教区内各地に派遣、その一つで FCAN(Federation of Concerned Artists in Negros=ネグロス芸術家同盟)などによる演劇のワークショップが行なわれた。この参加者のうち、国軍のハラスメントを日常的に受けていたラグランハ郊外のナガシ農園(Hacienda Nagasi)の青年グループが 1986年から自主的文化運動として始めたTaltalが起源。
 このTaltal(‘釘付け’の意)はその名の通りキリストの最期を表す伝統的手法による演劇だったが、人びとはキリスト受難(Passion)の姿に現在の自分たちの困難な状況を重ね合わせた。その後、小教区全体の行事とされ、1990年新任のテレンス神父(Fr. Terrence  Nueva)によって民衆の現在の苦難をキリストの受難に関する聖書の記述と重ね合わせて演劇化する文脈付け手法(Contextualized)をとりいれたカルバリヨとして再生された。イースターにキリスト受難劇を上演する場所は多いが文脈付け手法はこの地の独特のものである。

― カルバリヨの実際

【写真】カルバリヨ:最後の晩餐=2004年、西ネグロス州ラグランハ、平井朗撮影
【写真】カルバリヨ:カルバリヨの丘へ向かう=2004年、西ネグロス州ラグランハ、平井朗撮影
【写真】カルバリヨ:多くの観客も共に行列=2004年、西ネグロス州ラグランハ、平井朗撮影

 具体的には、伝統的手法(Traditional)と呼ばれるキリスト受難の再現部分として、まず村役場や教会に隣接する広場で「最後の晩餐」から「キリストの逮捕」が演じられる。後ろ手に縛られたキリストを先頭に護送するローマ兵軍団や大勢の出演者らが行列して最も暑い午後にカルバリヨの丘まで 4キロほどの道のりを行進する。先回りして待ち構えている観客も多いが、相当数の観客が出演者の移動に連なって行列する。この丘の麓の第一ステージでキリストの裁きのシーンが演じられ、十字架を背負わされたキリストらは丘の上の第二ステージへ急坂を上る。そしてそこで磔刑までが演じられる。
 続いて、十字架上に残されたキリスト役を前にして、文脈付け手法による芝居がはじまる。キリストの十字架上の最後の七つの言葉にちなんで、現代のフィリピン民衆を主人公にした七つのエピソードが演じられる。例年この「テーマ」は文脈付け手法の内容を表すものでもあるのだが、金持ちによる違法伐採などの環境破壊による人々の苦しみ、海外出稼ぎ労働者の苦しみ、グローバリゼーションや輸入自由化によるサトウキビ労働者の苦しみ等々、キリストの受難に重ね合せて、その時々の地域の人びとが直面する苦難を示すものである。

【写真】カルバリヨ:カルバリヨの丘を登るキリスト=2004年、西ネグロス州ラグランハ、平井朗撮影
【写真】カルバリヨ:十字架上のキリスト=2004年、西ネグロス州ラグランハ、平井朗撮影

― カルバリヨの背景

 このような運動が興った背景は、第一にフィリピン植民地化におけるカトリック教会の役割について再確認することからみえてくる。スペインによる植民地支配は、カトリック教会の「宣教の任務」と結びつけられて正当化された。しかし一方レイナルド・イレート は、フィリピンの民衆史において、土着化したキリストの受難叙事詩「パション」が植民地支配への抵抗の原動力と解放のビジョンを与えたことを明らかにしている。民衆はキリストの中に改革者、革命家を見出し、キリスト教の中心教義に基づいた解放の闘いを展開できるようになった。
 さらにバチカン第二公会議(1962~65 年)以降のカトリックの変化、「解放の神学」の台頭がある。ミンダナオ島からミッションを通して伝わったといわれる解放の神学は、バコロド教区へのフォルティッチ司教の着任によってネグロス島で具体化された。 地方語であるヒリガイノン(イロンゴ)語でのミサに加えて、信者による自律的な内省と対話・討論の場であるパニンバホンと共に「福音を自分たちの共同体の問題に当てはめられる」、つまり民衆が神と直接交通して共同体を始められる、自分たちの状況を語る言葉を獲得した。BCCの組織が広がり、社会正義実現に向けて司祭と信徒が一体となって「貧困」やマルコス政権(1965~86年)からその後のアキノ政権(1986~92 年)、そして現在まで連綿と続く地域の軍事化に対抗したのである。

― その後のカルバリヨ、そしていま

 アシェンダでばらばらに抑圧され、自らを語る言葉を奪われてきた民衆が、自分たちの苦難をキリストの受難にオーバーラップすることによって言葉を取り戻し、自分らの受ける暴力を認識し、自ら歴史を叙述し変革する過程。さらにカルバリヨは、外部の同じような立場にある人びとにその認識を伝え合い、共闘を募るコミュニケーションとなった。
 カルバリヨは、出演する青年たちだけでなく、芝居自体の制作・運営、衣装・装置etc.の裏方から、稽古のための宿泊・食糧etc.の支援まで小教区の老若男女の信徒全員が無報酬で参加、また近隣から何千もの人びとが観にやってくる大イベントであった。
 しかし、1992年のフィリピン共産党分裂以降、国軍による民衆への圧力は、顕示的ハラスメントから犯人不祥の政治的殺害へと変化。また、BCC運動を支えたバランゴンバナナ生産の病虫害による壊滅などから、青年による自主的文化運動としてのカルバリヨの息吹が失われ、次第に単なる年中行事と化していると言われるようになった。
 小教区に着任する司祭の志向に左右される部分も大きい。人々が集うことよりお金集めを優先し、富裕層の信者を重視する神父が着任すると、カルバリヨで取り上げるテーマも変化してきた。とくに2017年に着任した司祭は、今までSVF教会で社会正義や連帯の活動に関わってきた信者たちと強く対立し、古参の信者たちをミサから遠ざけ、カルバリヨも中断するに至った。
 しかし、現在の司祭が着任して以来、教会と信者たちとの関係は修復され、カルバリヨも復活した。COVID-19のために規模は縮小され、伝統的手法のみが演じられているが、抑圧に抵抗する地元の人びとの志は脈々と受け継がれ、若者たちに伝えられ広められている。

<筆者紹介>
立教大学大学院異文化コミュニケーション研究科、元特任教授。専門は平和学。
2002年よりラグランハの人びとのお宅にお世話になりながら、サトウキビ・アシェンダに通い、カルバリヨへの参与観察を通して、平和をめざす脱開発コミュニケーションを提唱。



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Painting:Maria Sol Taule, Human Rights Lawyer and Visual Artist

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