1972年のフィリピン戒厳令宣言から50年:当時を振り返る(その6) 

【写真】マリピピ島/via History of Maripipi, Biliran Island.

ハイメ・Z.・ガルヴェス・タン
(ヘルス・フューチャーズ財団会長、フィリピン大学医学部元教授)

 私が今回取り上げる1975年から83年は、フィリピンが戒厳令下にあった時期である。
 スタートは1975年7月。私はマニラ首都圏を離れ、サマール島とレイテ島(当時は医師のいない自治体の数が最も多かった)の最も貧しい人びとのために働くことを決意した時である。この物語は、1983年9月、ベニグノ・アキノ上院議員(当時)がマニラ国際空港の滑走路で暗殺された2週間後まで続く。

― サマール島カトリック教会の司教らに出会う

 1975年7月、私はマニラから船でサマール島最大の市であるカルバヨグ市に向かった。24時間の快適な船旅で、私にとって初めてのひとり旅だった。医学部を卒業したばかりの私は、神と祖国に仕えるという気概に燃えていた。この船旅で1つ面白かったことは、この船には知り合いが一人もいないのだが、カルバヨグ市に到着するという目標は皆同じだった。私は、普段とても社交的でフレンドリーな人間だが、船の上では誰もがサマール島やレイテ島北部の現地語であるワライ語で話していたので、誰かに話しかける勇気を持てなかった。誰とも話すことができないまま、夜が更けていった。私は、翌日まで、実に15時間も黙っていたことになる。どうしてこんなに沈黙し、話すことができないのだろう。かなり不安な気持ちだった。そして、あと4時間ほどでカルバヨグ市に到着するという頃、私は勇気を出して若い人たちに話しかけ、打ち解けることができ、乗客の何人かに知人を作るきっかけとなった。というわけで、彼らは私がワライ語も知らないままサマール島で医師として奉仕活動をすることを知ることとなった。

 昼頃、ようやくカルバヨグ市に着いた。桟橋には、カルバヨグ市出身のフィリピン総合病院の新卒看護師の友人がいた。カルバヨグ出身の彼女の案内で、赴任するまで一時的に滞在することになっているカルバヨグ市の司教館へ行き、司教と社会活動委員会の神父に会った。

 当時のフィリピンでは、カトリック教会は保守派と進歩派に分かれていた。保守派はマルコス・シニア独裁政権に協力し、進歩派は独裁政権に批判的で、国軍による虐待について教区から報告書を出していた。サマール・カトリック教会は、司教からほとんどの教区司祭、特に困難な地域に赴任している司祭に至るまで、進歩的なグループに属していたと言える。

― 義務付けられていた国家試験前の地方での奉仕活動はマルピピ島で!

 サマール島で活動を始める前に、私は、陸路と夜行フェリーでレイテ島のタクロバン市に行かなければならなかった。なぜなら、マルコス・シニア大統領の指示により、医学や看護学を学んだ者は医師や看護師の免許を取得する前に6ヶ月間地方で奉仕しなければならないことになっており、私は保健省の地方事務所へ活動地域を報告しなければならなかったのだ。タクロバン市はレイテ島とサマール島などから成るフィリピンRegion Ⅷ(東ビサヤ地方)の中心である。

 カルバヨグ市からタクロバン市までは長い道のりだった。まず、カルバヨグ市からカトバロガン市へは、ぬかるんでいたり、岩だらけで荒れていたりする幹線道路を公共交通機関で移動した。そこは、私がこれまで通った中で最悪の幹線道路だった。舗装されていれば1時間程度で行ける距離だが、カルバヨグ市からカトバロガン市まで3時間以上かかった。さらに、当時はまだ、サマール島のサンタ・リタ町とレイテ島のタクロバン市を繋ぐサン・ファニーコ橋(1973年に日本の戦時賠償で完成)もなかったので、私は、カトバロガン市かタクロバン市まで6〜7時間、夜行フェリーに乗らねばならなかった。

 フェリーボートは私にとってカルチャーショックだった。ベッドは横並びで、男女の区別はなく、先着順だ。隣のベッドに生きた鶏や豚が置かれていなければラッキーで、隣で寝ている人がいびきをかいていても、会話がうるさくても、旅を乗り切れればよしとなる。それでも私は眠りにつき、サマール島とレイテ島の間にあるサン・ファニーコ海峡を通る頃目覚めた。

 保健省の地域局長に会ったとき、私は「医者のいないもっとも遠い場所に配属されたい」と申し出た。

 地域局長は、マリピピ島を勧めた。マリピピ島へは、アウトリガー・ボート(船体を安定させるため、両側に突き出した浮きを備えた細長い、アメンボのような形をした木造船)に乗って、タクロバン市から8時間かかる。私は大歓迎で冒険心をもってこの任務を引き受けた。

― レデンプトール派神父らからの推薦状をもってマリピピ島へ

 タクロバン市では、レデンプトール派神父らの修道院に滞在することになった。マリピピ島に出発する前に、私は司教から、私が島の人びとのもとに滞在するにふさわしい人物であるという推薦状をもらったのだ。レデンプトール派の神父たちは本当に親切で、私を温かく修道院に迎え入れてくれた。レデンプトール会は、タクロバン市で最も人気のある巡礼教会を管理している。

 私は、再度、タクロバン市からカルバヨグ市に戻り、サマール・カトリック教会の司教や社会活動委員会の神父、スタッフに、マリピピ島に赴任することを伝えなければならなかった。ちなみに、晴れた日にはカルバヨグ市にあるカルバヨグ湾の向こうに、マリピピ島が見える。

 こうして私は、7月から12月の6ヶ月間、サマールの新しい友人たちに別れを告げマリピピ島へ向かった。

― マリピピ島での経験を通して地域密着型健康プログラムを開発

 私は、1日10語を書いてワライ語を習得しようと決意し、一月で300語を覚えた。言語を知るために、私はいつもワライ語を話すよう努め、どんなに間違えても、自分のことを笑いながら学び続けた。それが語学を習得する秘訣、謙虚な姿勢であり、語学をマスターする一番の方法だったのだ。

 マリピピ島での6ヵ月間は、今でも私の人生の中で最高の瞬間のひとつだ。完全に隔離されたこの島には、戒厳令の脅威はなかった。人びとは皆、フレンドリーでとても親切に私をもてなしてくれ、協力的で付き合いやすかった。この島の人びとほど友好的な人たちと一緒に過ごしたことがない。その後、私は島の人びとには独自の文化があることを理解するようになった。島の人びとは、嵐や飢饉、島の荒廃を招くような危険から自分たちの生活を守るために、より自立し、より前向きであることを学んできたのである。人びとは常に、自分たちの環境、生活、そして自尊心を守るために団結してきた。

 マリピピ島での経験は、地域密着型健康プログラムをどのように築いていくか、実践の中で開発していく機会を私に与えてくれた。その健康プログラムの中で、人びとそしてコミュニティは、自らの身体・精神・社会的な健康を自分たちに適した資源を活用して管理することによって、エンパワーされていく。

 それぞれのバランガイ(村)において、10~15世帯が1つのグループとして組織され、それぞれのグループは地域医療ボランティアを選出する。バランガイは通常、70~150世帯で構成されていので、1つのバランガイには7~12人の地域医療ボランティアが存在することになる。

 私のチームは、地域保健師、助産師、家族計画普及員で構成されていた。私たちは地域医療ボランティアに、病気の予防や健康増進、基本的な応急処置、咳や風邪、発熱、下痢などの一般的な病気の家庭療法について、主に地元にある薬草を使ってトレーニングを行った。 また、結核の患者を特定するなど、必要に応じて患者を適切な医療機関へ紹介する訓練も実施した。

― マリピピ島からレイテ島へ、そして、再度サマール島へ

 マリピピ島の後、私はレイテ島のパロ、ラパス、パストラナ、ババトンゴンという4つの自治体で6ヶ月間活動した。このときのプロジェクトは、フィリピン農村宣教師会(RMP)のもとで実施された。このプロジェクトはマカパワ(MAKAPAWA)と名付けられた。マカパワはワライ語のCommunity Based Health Programの頭文字を取ったものだが、文字通り「啓蒙する」という意味である。

 都市から遠く離れた地域でのサービス提供における障壁の1つめは、雨天だ。毎日ひたすら激しく雨が降っていて、私はレイテ島には雨季と豪雨季しかないと思った。2つめは、(通常1日1本しかない)公共交通機関の不足である。ジプニー(乗客の好きな場所で乗り降りができる小型バス)のドライバーからの情報では、出発は午前7時となっているが、実際には乗客が満員になったときが出発時刻となる。ジプニーがタクロバン市を出発するまでに、通常1時間から1時間半は待たされる。3つめは、ほとんどの村に車の通れる道路がないことだ。公共交通機関では辿り着けないので、大雨の中、洪水やぬかるみの中を歩いて行くしかない。結果的に私は、家庭訪問の際にはレインコートと膝上まである長靴を常用するようになり、雨が止んだら地域での集会を開くようにした。

 数ヵ月後、私は両親に頼んでオートバイを買ってもらうことにした。時間を節約できるし、オートバイなら川を渡り、村と村の間のジャングルや森の中の小道も進むことができるからだ。

 そんなレイテ島での暮らし、そして、仕事だった。

 半年後、再度、サマール島へ移動する時が来た。私の本部はサマール島のサン・ジョージという新しくできた町にあり、ガンダラの村々も担当した。ガンダラは面積としては広いがインフラは整っておらず、ほとんどの村に川船でしか行けなかった。

― 抵抗の地、サマール島

 サマール島は、マリピピ島を含むビリラン島(州)、またレイテ島とは全く異なる歴史を持っている。サマール島は、抵抗の地、スペインに対する初期の革命を生んだ地として知られる。地元の軍隊はプラハネスまたは赤軍と呼ばれ、サマール島の人びとは、男女ともに、人権を侵された時の闘争における勇敢さ、勇気、そして確固たる決意で有名だ。その抵抗の歴史は、1898年から1904年にかけての比米(米比)戦争の際にも根強く残されていた。サマール島は、米国によるフィリピン占領に対する抵抗の砦のひとつだった。

 バランギガという町での米兵最大の虐殺の一つはプラハネスの仕業である。サマール島を担当していた米軍のアーサー・マッカーサー・ジュニア将軍(ダグラス・マッカーサー将軍の父)は、米兵虐殺に対する報復として、サマール島とレイテ島の島民の皆殺しを命じた。これは、バランギガ大虐殺と呼ばれる。

 興味深いことに、1942年から1945年にかけて日本軍がフィリピンを占領したとき、プラハネスは日本軍と同盟を結び、継続的に米軍と戦った。プラハネスは、サマール島から、そしてもちろん最終的にはフィリピンから、アメリカ勢力を打倒する目的で日本軍と同盟を結んだのである。プラハネスは、たとえ日本軍と同盟してでも、何としてもアメリカ帝国主義と戦うのだと考えていた。

 こういった状況は、インドネシアでも同じだった。スカルノ元大統領は、オランダの植民地支配に反対するインドネシアの反植民地化運動の指導者だった。日本軍が大東亜共栄圏の一環としてインドネシアに侵攻した時、スカルノは日本軍と手を組み、戦術的にオランダの植民地支配を排除しようとした。フィリピンと何千マイルも離れているが、サマールのプラハネスたちは、インドネシアの民族主義運動と普遍的な結束を持っていた。

 戒厳令(1972年)当時のサマール島には、フィリピン共産党(CPP)の新人民軍(NPA)支部さえなかった。しかし、スペイン人、そしてアメリカ人に対するサマールの武装抵抗の長い歴史と戒厳令を考慮すれば、NPAがサマールで勢力を拡大するのは時間の問題だった。それを後押ししたのは、独裁者マルコス・シニア大統領に近い政治家らによる、木材や採鉱を目的とした土地の強奪、島民に対する抑圧と搾取である。

 これが、私が1975年に到着してから1978年までのサマール島の政治状況だ。

― サマール島やレイテ島での活動のために国軍の監視下に

 サマール島での私の仕事は、カトリック教会のカルバヨグ教区の社会活動の一部だった。私はまた、フィリピン農村宣教師会(RMP)というカトリックの修道女たちの組織とともに活動した。RMPは、都市部にあるカトリックの学校や病院で働くよりも、貧しい人たちのコミュニティで働くことを決めて活動していた。フィリピンが戒厳令下にある中で、私はカトリック教会の組織と保護によって、最も貧しい人びとの間で安全、名誉、そして仕事を見つけることができた。

 サマール島滞在中、私の母校であるフィリピン大学マニラ校(医学部)も、従来の医学部とは全く異なる画期的なカリキュラムで、医療専門家を養成する保健科学部の設立を計画していた。マニラ校の学長は、私がサマール島とレイテ島で活動していることを知っていて、1976年にレイテ島に設立された新しい保健科学部のパイオニア教員になるように説得した。

 こうして私は、レイテ島とサマール島で働くための正当な権利を得た。しかし、こうした正当で正しい約束にもかかわらず、国軍に代表される独裁政権は、後に私にサマール島での仕事を継続しないように警告を発することになるのである。そう、私は国軍の監視下に置かれることとなり、1978年には私に対する逮捕令状が出されたのである。

― つづく

〈筆者紹介〉
 Jaime Z. Galvez Tan. 無医村地域における草の根のコミュニティ活動、国内外の保健計画、医学部と保健科学部の教員、西洋医学とアジアやフィリピンにおける伝統医療を組み合わせた臨床実践、国家保健政策開発、国家保健分野運営管理、民間部門の保健事業開発、研究管理、地方政府の保健開発などに携わる。また、NGOや世界保健機関、ユニセフ、国連開発計画などのコンサルタントに従事し、学界や政府機関とも連携してきた。著書・共著書に、Hilot: The Filipino Traditional Massage (2006)、Medicinal Fruits &Vegetables (2008)など多数。

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