1972年のフィリピン戒厳令宣言から50年:当時を振り返る(その3)

【写真】戒厳令布告を報じるフィリピン・デイリー・エクスプレス紙/via Declaration of Martial Law, Martial Law Museum.

ハイメ・Z.・ガルヴェス・タン(ヘルス・フューチャーズ財団会長、フィリピン大学医学部元教授)

★その1・2のあらすじ:1970年代初頭のフィリピンでは、ベトナム戦争への参戦とマルコス・シニア政権の腐敗に対する学生デモが盛り上がっていた。抗議活動は国軍や警察による暴力によって弾圧された。1971年8月21日には、あらゆる部門の人びとが参加したミランダ広場での政治集会が爆破され死傷者を出し、9月21日戒厳令が布告された。タン氏は、デモの際に暴行を受けた経験から一度は運動から距離を置くが、フィリピン大学医学部内における腐敗なども発覚したことから、学生自治会委員長として運動に関わるようになっていった。

― 戒厳令布告と両親との別れ

1972年9月21日は、当時のフェルディナンド・マルコス・シニア(マルコス・シニア)大統領によって正式に戒厳令宣言が署名された日だが、実際に戒厳令が発動されたのは1972年9月23日未明であった。

野党の政治家やマスコミの批評家、学生リーダー、青年活動家、急進的な大学教授は逮捕され、刑務所に入れられた。政府のテレビ局を除いてすべてのラジオ局やテレビ局は閉鎖され、すべての新聞社やメディア支局には南京錠がかけられ、フィリピン・デイリー・エクスプレス紙だけが、戒厳令下の公式な広報紙として営業を許された。

9月23日の午前2時、私たちの学生政党の支持者たちが、私の家にやってきた。彼らは、国軍がフィリピン大学ディリマン校のキャンパスに入り、フィリピンで進む軍事化に抗議して焚き火をしていた学生たちを全員逮捕したと、私に知らせた。大学の友愛会のメンバーである学生支援者たちは、すぐに荷物をまとめて、国軍に逮捕されないよう安全な場所に隠れるようにと私に頼んだ。私は、同居していた両親に、できるだけ早く安否を知らせると伝え、別れを告げた。

― マニラ郊外のサポーター宅へ身を寄せた

友愛会メンバーは、私をマニラ首都圏の郊外にある友愛会サポーターの家へ連れていった。私たちはみな、恐怖や緊張、不安と不動心や勇気、信念などの入り混じった感情を持っていた。私たちは、みんなで一つの部屋にこもり、自分たちを守るための方法や手段を考えた。近所の人たちに怪しまれない方法や数週間から数カ月に及ぶであろう軍政をどのように生き抜くか意見を出し合った。私たちの会話の中心は、フィリピン大学学生評議会選挙や多様な大学から学生が集まった抗議デモへの参加、9月1日の選挙での勝利といった過去数週間に起こった出来事についてだった。

すべての学校、大学、カレッジが閉鎖され、そして、全国すべての学生評議会が廃止されたため、私たちが大学評議会の運営に携われたのは、わずか23日間だけだった。学生のリーダーとして、私たちは労働者、農民、専門家、宗教団体、都市貧困層など他セクターの組織とともに、戒厳令の宣言に抗議した。

マルコス・シニア大統領が3期目の当選を果たせなくなったときから、すべての兆候は見えていた。フィリピン憲法は大統領の再選を許さなかった。それゆえ、マルコス・シニア大統領は、1971年、憲法を改正するために憲法会議を招集した。だが結局、憲法会議の代表者たちもマルコスに逆らった。汚職、縁故資本主義、イメルダ・マルコスの行き過ぎた行為なども、戒厳令前の当時の政治課題であった。

マルコス・シニア大統領のような政治家が権力を維持するためには、戒厳令を宣言し、ワンマン・ルールと独裁体制を確立し、あらゆる反対勢力を黙らせる以外に道はなかった。1972年9月23日に戒厳令が施行されると、マルコス・シニア大統領に反対する人たちが予測したことはすべて現実のものとなってしまった。

― 3か月の潜伏生活

初めて訪れた場所に身を隠してから、あっという間に1週間、そして1ヶ月、3ヶ月と過ぎた。私が安全であることを両親に確信させるために、私は、私を自宅まで迎えに来てくれた学生リーダーに両親あての短い手紙を託した。私は両親からのいかなる返事も受け取らなかった。なぜなら、私の手紙は匿名で、そして、ひそかに届けられたからだ。また、学生リーダーらは、両親が私に会わせてほしいと言うといけないので、私の自宅に長居しないようにしていた。

3ヵ月間の潜伏生活をどう過ごしたか。国中で起きている本当のことを知らなかったので、日々の議論は主に憶測に頼っていた。時々、独裁政府が運営する唯一のラジオ局やテレビ局を聞くこともあったが、そのニュースはすべて嘘で、まったく信用できないことも知っていた。

だから、結局、「地下」の友人から送られてくる、ズボンやシャツのポケット、手の中にちょうど収まるように折った紙切れに頼ることが多くなった。学生運動家同士のコミュニケーションは、そうやって行われていたのだ。1ヵ月もすると、「地下」通信が密かに流通し始めた。しかし、その配布は、政府関係者に怪しまれないように、極めて慎重に行われた。

また、精神的にも健康であるために、毎日、裏庭で運動したり、スポーツをしたりして、日光を浴びていた。私の記憶では、その頃、率先して参加していた多くの街頭抗議活動からエネルギーを得ていた。複雑な思いは常にあったが、私たちはこの経験から何か良いことが生まれるのではないかと、希望と楽観を持ち続けた。

― 「地下」から通常の生活に復帰し学生理事へ

そして実際、3ヶ月目に、フィリピン大学のサルバドール・P・ロペス総長から、フィリピン大学理事会初の学生理事に任命されたとの知らせを受け取った。理事会は大学の最高政策決定機関である。理事会は月に1回開催され、私は1972年12月の会合に出席するように勧められた。私たちは、この招待状が私を逮捕するための罠であると判断し、当初は招待を無視した。しかし、ロペス総長は、何度も手紙を寄こしてきた。

その後、フィリピン大学医学部のフロレンティーノ・エレラ学部長からも手紙が来るようになった。私が「地下」から通常の生活に復帰し学生理事の任に就いたとしても、危害を加えられることはない、という内容だった。ロペス総長も、私が逮捕されることはなく、総長自身が私を保護すると保障した。

ほどなくして、父からも手紙が届いた。父は、ロペス総長とエレラ学部長から私が学生理事に任命されたと連絡があったこと、学生リーダーとしての役割を担い医学部に戻れる機会としてこの申し出を真剣に考えるべきだと告げられた。

すべての結果とリスクを検討した結果、私は、通常の生活に復帰すべきと判断した。ロペス総長とエレラ学部長は、戒厳令が発令される以前から学生たちと非常に親しく、私たちの活動や行動を全面的に支持してくれていた。

私は両親のもとへ帰った。両親もようやく、私の無事な姿を見て安堵した。父は、ロペス総長とフエレラ学部長に会いに行ってくれた。私は、本当に逮捕されないと確信した。ロペス総長とエレラ学部長は、国軍が学生を逮捕するために大学に侵入しないという約束を破った場合の手順についても説明してくれた。 結局、私は学生理事としての宣誓をし、1972年12月にフィリピン大学理事会の第1回会合に出席した。

〈筆者紹介〉
Jaime Z. Galvez Tan. 無医村地域における草の根のコミュニティ活動、国内外の保健計画、医学部と保健科学部の教員、西洋医学とアジアやフィリピンにおける伝統医療を組み合わせた臨床実践、国家保健政策開発、国家保健分野運営管理、民間部門の保健事業開発、研究管理、地方政府の保健開発などに携わる。また、NGOや世界保健機関、ユニセフ、国連開発計画などのコンサルタントに従事し、学界や政府機関とも連携してきた。著書・共著書に、Hilot: The Filipino Traditional Massage (2006)、Medicinal Fruits &Vegetables (2008)など多数。

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