ハイメ・Z.・ガルヴェス・タン
(ヘルス・フューチャーズ財団会長、フィリピン大学医学部元教授)
その1・2・3のあらすじ:1970年代初頭のフィリピンでは、ベトナム戦争への参戦とマルコス・シニア政権の腐敗に対する学生デモが盛り上がっていた。抗議活動は国軍や警察による暴力によって弾圧された。1971年8月21日には、あらゆる部門の人びとが参加したミランダ広場での政治集会が爆破され死傷者を出し、9月21日戒厳令が布告された。タン氏は、デモの際に暴行を受けた経験から一度は運動から距離を置くが、フィリピン大学医学部内における腐敗なども発覚したことから、学生評議会委員長として運動に関わるようになっていった。戒厳令発動後ほどなくして、国軍がフィリピン大学ディリマン校キャンパスに入り、軍事化に抗議して焚火をしていた学生らを全員逮捕した。危険を察知したタン氏と仲間は、その事件のあとすぐ、3か月の潜伏生活に入った。3か月後タン氏は、フィリピン大学総長から「タン氏が大学理事会の学生理事に任命された」との通知を受け、大学生活に戻ることを決意した。
― 思いもよらぬ大学理事会の学生理事への任命
フィリピン大学(U.P.)理事会の最初の学生理事になることは、私の計画になかった。戒厳令が発令される前にフィリピン議会で可決された法律により、フィリピン大学の運営が改革された。そのひとつが、フィリピン大学の学生評議会の委員長が自動的に、大学の最高政策決定機関である大学理事会の学生理事になるというものだったのである。学生理事の任期は1年だった。フィリピン大学の学生評議会委員長は、毎年、通常9月に全生徒によって選出される。
私は、サルバドール・P・ロペス(以下、S. P.ロペス)フィリピン大学総長から説明を受けた。S. P.ロペス総長のことを、学生を大切にする総長、そして穏やかでありながらとてもしっかりした総長として、これからも、いつも思い出すことだろう。彼は、言葉も体格も優れた指導者で、本当に尊敬と栄誉に値する人だった。理事会の事務局長はオスカー・アルフォンソ教授で、こちらも気さくでカリスマ的な人物だった。
理事会の毎月の予定は、前もって各理事に送られてきた。決議や方針を決定する際には、全会一致でなければならない。1人の理事から異議が出されれば承認は見送られ、その決議は、翌月の理事会で議論するために上訴または修正された。 第1回目の理事会に出席する前、私は、大学理事12人のうち8人が隠遁生活を止め、授業に復帰していることを知った。彼らの名は、ボビー・クリソル、ボビー・コロナド、セサール・アズリン、メアリー・アン・キング、アジ・パヨンガヨン、バベス・ガラン、フランシス・ソブレヴィナスである。
― 戒厳令布告以来の沈黙を破り、学生を再度組織化するための体育祭
私は、S.P.ロペス(私たちは親しみをこめて彼をS.P.と呼んだ)総長と理事会に、学生の声を理事会に届けるために、学生理事に学生理事室を与えてほしいと働きかけた。大学理事会は、学生理事がヴィンソン会館にある大学学生評議会元事務所を使用することを承諾した。また、フィリピン大学学生評議会の予算を、学生理事室が使用することも承認された。
学生理事室は、地下組織に参加しなかった大学評議員や学部評議員とともに、その他の学生たちとも連絡を取り合いながら活動した。私たちは、戒厳令の規則に反しないかたちで、学生たちが戒厳令布告以来の沈黙を破り、集い語り合う場をいかにして作れるか、そして、学生たちを組織化する方法を考えるのに腐心した。結果、私たちは、1973年2月に体育祭を計画した。私たちは大学理事会とS.P.ロペス総長から了解を得た。私たちはただ、戒厳令やマルコスに対する抗議を公然と示すことがないようにした。これは、私が理事会とS.P.ロペス総長と交わした約束だった。
学生友愛会や女子学生社交クラブが、体育祭の基幹となった。カバタアン・マカバヤンやサマハン・デモクラティコン・カバタアンといった進歩的で活動的な学生団体のほとんどが禁止されていたからだ。
学生による体育祭は、大成功に終わった。サッカー場、陸上競技場、体育館、プールは連日、選手、チアリーダー、観客で溢れ、今まで集まることを禁じられ、沈黙を強いられていた学生たちが、ついに大きな声を出し、一緒にチームを応援できるようになった。
体を動かし、スポーツマンシップを楽しむという第一の目的もさることながら、学生を組織化するという隠れた目的も達成された。「極めて合法的 」な方法で、再び学生会を組織する道が開かれたのである。
― 授業料値上げへの抗議行動と学生理事としての任期打ち切り
私の学生理事任期は、フィリピン大学の研修病院であるフィリピン総合病院(PGH)における臨床実習の時期と重なっていた。私は、24時間体制で病棟に勤務していた。学生理事になって興味深かったのは、時々、院内放送で私の名前が呼ばれ、あちこちの病棟ナースステーションへ行くように指示されることだった。ナースステーションへ行ってみると、そこには、大学の多様な学部の学部長たちが、私と面会するために待っていたのである。
彼らは皆、理事会で承認してもらいたい政策決議案への私の支持を確かめに来ていた。学生理事と一緒になって、自分たちの利益を守るためにロビー活動をする先輩たちの姿を見るのは、本当に楽しいことだった。これは、大学理事であることの特典の1つであった。それにしても、私は身が引き締まる思いがした。
学生理事としての私の最後の仕事は、1973年から1974年にかけての授業料値上げに対する学生による抗議行動を組織したことだ。この時の学生の組織化は、同年2月の体育祭なしには成しえなかったと考えている。授業料の値上げが理事会の議論の対象になったとき、私はすぐに各大学の学生リーダーたちと協議を重ねた。フィリピン大学の学生の多くは、中所得以下の家庭や貧しい家庭の出身である。そして、授業料値上げのタイミングは、戒厳令の経済的利益とは一致しなかった。学生たちは、フィリピン大学の管理棟に集合し、抗議を表明することにした。
これは1973年6月、授業が始まる前のことだった。結果はもちろん、私は学生理事としての任期を打ち切られた。これは勝利であると同時に敗北でもあった。勝利は、戒厳令初期のフィリピンで初めて、学生が抗議行動を起こしたこと。敗北は、しばらくの間、学生の声が大学理事会に届かなくなったことである。
その後また、キャンパスに静寂が広がった。私は、1974年4月、優秀な臨床実習生10人のうちの1人として、フィリピン大学医学部の学位を取得した。フィリピン総合病院での研修では研修医会長として活動し、1975年4月、私はフィリピン総合病院の最も優秀な研修医として研修生生活を終えた。
1975年6月までに、私の同窓生は全員、フィリピンの医師国家試験に合格した。 さあいよいよ、フィリピンの農村へ行き、最も貧しい人々に奉仕する時が来た。
〈筆者紹介〉
Jaime Z. Galvez Tan. 無医村地域における草の根のコミュニティ活動、国内外の保健計画、医学部と保健科学部の教員、西洋医学とアジアやフィリピンにおける伝統医療を組み合わせた臨床実践、国家保健政策開発、国家保健分野運営管理、民間部門の保健事業開発、研究管理、地方政府の保健開発などに携わる。また、NGOや世界保健機関、ユニセフ、国連開発計画などのコンサルタントに従事し、学界や政府機関とも連携してきた。著書・共著書に、Hilot: The Filipino Traditional Massage (2006)、Medicinal Fruits &Vegetables (2008)など多数。