【コラム】戒厳令から50年 これまでの人権運動を振り返って

【写真】Bantayog ng mga Bayani (英雄博物館)の「追悼の壁」/via website of Bantayog ng mga Bayani

大橋成子(ピープルズ・プラン研究所)

 マニラ首都圏のケソン市にある、Bantayog ng mga Bayani (英雄博物館)は、マルコス独裁政権時代(1965~1986)に、圧制と闘い、拷問、行方不明、殺害の犠牲者となった人々を殉教者・英雄と称え、Never Again, Never Forgetを合言葉に、同志や遺族たちが、アキノ政権誕生後30年以上にわたって運営してきた歴史博物館である。広大な敷地の入り口には、正義・平和・真実・自由と刻まれた英雄の像がたち、手入れの行き届いた芝生の広場を囲むように建てられた「追悼の壁」には、何百人もの殉教者の名前が刻まれている。私が20年間生活したネグロス島で1985年に起きたエスカレンテの虐殺(砂糖労働者のデモに軍が無差別発砲し27名が死亡)の犠牲者もここに追悼されている。マルコス時代以降に犠牲になった殉教者たちの名前も毎年追加されてきた。2階建ての博物館には、もうここでしか見られないと思われる、独裁時代に配布された出版物、ビラやポスター、巨大な横断幕、ABC順に並んだ犠牲者の写真付きプロフィールが展示され、当時の政治犯用独房もそのまま再現されている。

 戒厳令時代を知らない高校生や大学生が課外授業で訪れ、館内はいつも若者たちで賑わい、庭の広場はコンサートや集会にも貸し出されている。コロナ禍前の2019年12月10日の世界人権デーには、ドゥテルテ政権下で犠牲になった遺族や仲間も含めて500人ほどが、厳粛な追悼集会を開いた。

 今年(2022年)9月、戒厳令発令から50周年を迎える。あの時代を鮮明に覚えている人たちはすでに60歳を超えた。

― 「フィリピンの人権問題は日本の責任でもある」

 私は1970年代後半から、アジア太平洋資料センターでフィリピンの民衆運動との連帯に関わった。日系企業の公害輸出、バナナプランテーションの農薬や労働問題、買春観光、「出稼ぎ」労働者、米軍基地など様々な取り組みがある中で、人権問題は常に急務の課題だった。生きるために声を上げた人々が突然行方不明になり虐殺され、平和的デモで軍の銃弾に倒れた人たちや当局に追われる活動家たちの救援にいつも追われていた。さらに当時「開発独裁」と言われたマルコス政権が、無慈悲に地域住民を退去させて押し進めたダムや漁港建設などで、夥しい数の農民や漁民たちの生活が奪われた。その開発を推し進めたのは日本の政府開発援助 (ODA)であり、官民一体となった日系企業の進出だった。連帯運動を通して、相互の信頼関係が強まるほど、「日本人はこの現実をどうするのか?」という厳しい問いかけがフィリピンの仲間から発せられた。

 当時フィリピンでは、進歩的なカトリック及びプロテスタント教会が人権問題で共闘するエキュメニカル(超宗派)運動が盛んだった。国内における活動が弾圧で制限されていたため国際的な連帯を求め、フィリピン問題資料センター(RCPC)が香港に設置され、ヨーロッパ・米国をはじめ世界の宗教者や市民社会にむけて、人権蹂躙の実態を報道し支援を求めた。1983年にこのセンターが東京に移転したことは、日本でフィリピンの人権問題への関心を広げる大きな力となった。カトリック正義と平和協議会やプロテスタント系の日本キリスト教団をはじめ、国会議員や弁護士連合、日本労働組合総評議会(総評)系の自治労など影響力のある労働団体、そして市民運動にRCPCは精力的にフィリピンの状況を伝え、人権問題への関心を訴えた。

 マルコス独裁体制を支えている援助大国が日本であり、私たちの税金で成り立っているODAを切り口にして、フィリピンで起きている人権蹂躙は日本の責任でもあると広く訴えた。国会議員や弁護士、キリスト者らと連携した共同声明や国会でフィリピンの人権問題を取り上げるなど、フィリピン政府に圧力をかける有効な手段がとれた時代だった。

― 日本の諸運動におけるフィリピンへの関心の低下

 1986年、マルコス独裁政権が倒されコラソン・アキノ大統領が誕生した時、人々の「民主化」への期待はとてつもなく大きかったが、それもつかの間、アキノ政権は米国の支援を受けて「低強度戦争」という反共・反乱鎮圧作戦を全国で展開し、「人民の海からゲリラを干す」という目的で農村部に焼討をかけた。ネグロス島では公表されただけでも4万人の国内難民が発生した。こうした反共政策を繰り返したアキノ政権に代わり、その後ラモス、エストラーダ、アロヨ、コラソン・アキノの息子ノイノイ・アキノの政権が登場したが、その都度、選挙公約に挙げられた民族民主戦線(NDF)との停戦協定は交渉が決裂し、停戦は実現せぬまま6年前にドゥテルテ大統領が誕生した。

 この時期から、日本の諸運動におけるフィリピンへの取り組みはかつてのような勢いがなくなり、社会的にも徐々に関心が薄れていった。様々な要因が考えられるが、そのひとつは、90年代に入ってフィリピン左派勢力が分裂し、国際的な連帯運動に大きな混乱をもたらしたことがあるだろう。さらに人権問題に関しては、キリスト教会の世界的な保守化・右傾化が進行した時期でもあった。RCPCはこうした変化のあおりを受けて撤退せざるを得なくなった。日本国内も、社会党・総評の解散などによって、議会へのロビー活動やフィリピン政府に圧力をかける方策が途絶えていった。この時期、開発プロジェクトを中心とする国際NGOも多く登場したが、日比政府に援助や人権問題を突きつける活動は徐々に少なくなった。

― 5月大統領選挙の行方は・・

 私は6年前の大統領選の最中、ドゥテルテが市長時代に強力な手法で治安回復をしたことで名を馳せたミンダナオ島のダバオ市を訪れた。彼の人気はすごく、コンビニやファースト・フードの紙コップにドゥテルテの顔が印刷され、街中にヒーローのようなポスターが溢れていた。大統領就任時は進歩的な人々を含めてある種の期待感が漲っていた。歴代大統領で初めて米国の傀儡ではない、歯に衣を着せない豪快な大統領が誕生した、フィリピンは変わるかもしれない・・・という期待だった。しかし、それもまたつかの間の夢。ドゥテルテはダバオ市で功績をあげた治安対策を、麻薬戦争に代えて「超法規的殺人」を全国化した。都市貧困層の末端売人がターゲットになり、肝心な麻薬王たちにはお咎めはなかった。そして「超法規的殺人」は、なし崩し的に暮らしや人権を守るために声を上げる活動家の虐殺に転化していった。

 この形容し難い性格をもったドゥテルテ政権がまもなく終わろうとしている。5月9日の大統領選挙では、大統領候補である独裁者マルコスの長男ボンボン・マルコス、副大統領候補のドゥテルテの娘サラが圧勝するだろうと言われている。フィリピンは若い国だ。60代前の有権者はマルコス時代を知らない。きわどい発言や態度でさんざん物議をかもしたドゥテルテより、一見安定的に見えるマルコス・ジュニアに安心感を求めるのだろうか。サラも父ほどに破廉恥ではないが、ドゥテルテの父はマルコス時代に閣僚を務め、両家の繋がりは長くて深い。 フィリピンの人権問題には、政府もマスメディアも目をつぶっている以上、私たちはさらに注意深く監視の目を凝らしていく必要がある。その意味でも、Stop the Attacks Campaignが他にはない貴重な情報を発信してくれていることに感謝したい。

〈筆者紹介〉
大橋成子(おおはしせいこ)
1970~80年代、アジア太平洋資料センター。1990~2013年はオルタトレード・ジャパン、日本ネグロスキャンペーン委員会、APLAの活動でネグロス島に駐在。現在は、ピープルズ・プラン研究所に所属。

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Painting:Maria Sol Taule, Human Rights Lawyer and Visual Artist

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