【コラム】1972年のフィリピン戒厳令宣言から
50年:当時を振り返る(その1)

【Photo】First Quarter Storm, January – March 1970/ via Warning Signs, Martial Law Museum.

ハイメ・Z.・ガルヴェス・タン
(ヘルス・フューチャーズ財団会長、フィリピン大学医学部元教授)

― わずか16日間の学生自治会における権力

 1972年9月21日、フェルディナンド・マルコス・シニア(以下、マルコス・シニア)大統領(当時)によって戒厳令が発令されたとき、私はフィリピン大学医学部の3年生だった。
 同年9月1日に私は学生自治会委員長に選ばれたばかりだった。私たちの学生政党は、大学自治会および大学全学部の自治会で多数の議席を獲得した。一政党がほぼすべての議席を独占したのは、フィリピン大学の学生自治会史上初めてのことだった。 
 選出されたフィリピン大学学生自治会の役員全員は、大学の講堂で開催された式典において、フィリピン大学のサルバドール・P.・ロぺス総長の前で宣誓をした。
 だが、戒厳令が発令されたために、フィリピン大学学生自治会およびフィリピン全大学の学生自治会は、9月21日で廃止された。つまり、私たちはわずか16日間しか、権力を握ることができなかったのである。

― 1960年代後半からの学生運動最盛期

 私が学生自治会委員長に選出される前の1970年から1972年にかけて、学生のパワーと運動は最盛期を迎えた。1968年と69年の政治的混乱は、ベトナム戦争への米国の関与による。フィリピンは、クラーク空軍基地とスービック海軍基地という東南アジア最大の米軍事基地を抱えていた。米軍が北ベトナムへの空軍・海軍攻撃のためにこれら二つの軍事基地を使用することで、フィリピンは必然的にベトナム戦争に巻き込まれることになった。
 1969年、マルコス・シニア大統領は、1946年以降のフィリピン大統領として初めて再選された。選挙戦では、他の大統領候補者であったセルジオ・オスメナ・ジュニア上院議員(当時)とマルコス・シニア大統領が激しく争っていた。オスメナ・ジュニア上院議員は、マルコス・シニア大統領による暴力や票の買収、脅迫を利用した不正、いかさま、ペテンを非難した。
 1968年から72年までを「フィリピンのナショナリズムと愛国心が高まった年」と呼べるだろう。特にそれは、フィリピンの若者や学生たちの中に顕著に表れたと思う。

― 暴力で解散させられた学生デモ

 これらすべての先行する出来事が、いわゆる「学生反乱」、1970年の第1四半期の嵐につながったのである。1970年は、同年1月26日に実施されたマルコス・シニア大統領の施政方針演説に対する平和的なデモで始まった。だが、この平和的集会は、暴力で幕を下ろすこととなった。議会前に集まった数千人の学生たちが、メトロコム(首都圏警察特殊部隊)とフィリピン国軍によって催涙ガスや放水砲で攻撃され、警棒や盾を使って解散させられたのである。
 この出来事は、私にとって記憶すべきこととなった。なぜなら、人生初の学生デモへの参加だったからだ。私は、フィリピン大学ディリマン校の学生らとともに、他大学からの学生も参加しているデモに合流し、ケソン市とマニラの境界からフィリピン議会までの7キロをデモ行進した。
 私と友人たちにとってデモは、米軍基地を通じてベトナム戦争に関与する国の指導者らや、1969年11月の選挙における不正、票の買収、暴力を含むマルコス政権の腐敗などに対する私たちの失望を、合法的に、そして、自由に表現する場であった。
 学生デモが解散させられた時、私自身も警棒や盾で殴られ、首都圏警察に追われながら、議会前から2キロほど離れたケアポの安全な場所まで友人と全力で逃げた。

― メンディオラ通りは学生で埋め尽くされていたが、私は医師になることに集中

 私が初めてデモ参加した数日後の1970年1月30日金曜日には、学生たちはより大きな抗議デモで応酬し、大統領公邸であるマラカニアン宮殿を直接攻撃し、マラカニアンの門に消防車を激突させ、ついにはその鉄格子を破壊した。
 マラカニアンに通じるメンディオラ通りは、その日の午後、学生たちで埋め尽くされた。群衆は、クラロ・M・レクト通りやレガルダ通りにもあふれた。私は、数日前に身体と心に傷を負ったので、もうこの学生デモに参加しなかった。ただ、テレビで事件の成り行きを見守った。
 フィリピンの歴史上、本当に忘れられない日である。マラカニアンが学生たちによって占拠され、おそらく破壊されそうになったが、大統領警護隊や首都圏警察、フィリピン国軍によって阻止された。
 1970年は私の理学士課程の最終学年であり、4月に卒業する予定であった。そして、フィリピン大学医学部への6月からの入学を希望し、すでに出願もしていた。当時、私は医師になることを第一に考えており、愛国的なフィリピン人医師となることを夢見ていた。
 フィリピン大学医学部に入学するのは大変なことだった。1年生の115人の枠に、1000人の学生が応募してくるのが普通だった。競争は常に厳しいものだったが、運命に導かれるように、私は1970年6月に入学することができた。医学部1年生は、常に最も困難な学年である。1年目に全科目合格すれば、ほぼ、予定通り卒業できると言える。それゆえ、集中して真剣に勉強する時期だった。もう、マニラ首都圏の街頭で学生運動をすることもなかった。

― つづく

〈筆者紹介〉
Jaime Z. Galvez Tan. 無医村地域における草の根のコミュニティ活動、国内外の保健計画、医学部と保健科学部の教員、西洋医学とアジアやフィリピンにおける伝統医療を組み合わせた臨床実践、国家保健政策開発、国家保健分野運営管理、民間部門の保健事業開発、研究管理、地方政府の保健開発などに携わる。また、NGOや世界保健機関、ユニセフ、国連開発計画などのコンサルタントに従事、学界や政府機関とも連携してきた。著書・共著書に、Hilot: The Filipino Traditional Massage (2006)、Medicinal Fruits &Vegetables (2008)など多数。

あなたは知っていますか?

日本に送られてくるバナナの生産者たちが
私たちのために1日16時間も働いていることを

詳しく見る

最新情報をチェックしよう!
>ひとりの微力が大きな力になる。

ひとりの微力が大きな力になる。


一人ひとりの力は小さいかもしれないけれど、
たくさんの力が集まればきっと世界は変えられる。
あなたも世界を変える一員として
私たちに力を貸していただけないでしょうか?

Painting:Maria Sol Taule, Human Rights Lawyer and Visual Artist

寄付する(白)