ハイメ・Z.・ガルヴェス・タン
(ヘルス・フューチャーズ財団会長、フィリピン大学医学部元教授)
その1・2・3・4のあらすじ:1970年代初頭のフィリピンでは、ベトナム戦争への参戦とマルコス・シニア政権の腐敗に対する学生デモが盛り上がっていた。抗議活動は国軍や警察による暴力によって弾圧された。1971年8月21日には、あらゆる部門の人びとが参加したミランダ広場での政治集会が爆破され死傷者を出し、9月21日戒厳令が布告された。タン氏は、デモの際に暴行を受けた経験から一度は運動から距離を置くが、フィリピン大学医学部内における腐敗なども発覚したことから、学生評議会委員長として運動に関わるようになっていった。戒厳令発動後ほどなくして、国軍がフィリピン大学ディリマン校キャンパスに入り、軍事化に抗議して焚火をしていた学生らを全員逮捕した。危険を察知したタン氏と仲間は、その事件のあとすぐ、3か月の潜伏生活に入った。3か月後タン氏は、フィリピン大学総長から「タン氏が大学理事会の学生理事に任命された」との通知を受け、大学生活に戻ることを決意した。戒厳令下、学生らは声をあげることをためらっていたが、タン氏らは体育祭という「合法的」な活動などをとおし、学生たちの組織化を試みた。
― 人生を変えたパラワン島での活動
1975年半ばにフィリピン大学フィリピン総合病院(UP-PGH)で研修医を終え、医師国家資格を取得した後、私は地方に住み、奉仕することを決意した。そして、ほとんどの町や自治体に医師がいない、フィリピンで最も貧しいサマール島とレイテ島を選んだ。
私はずっと医師になりたいと思っていた。それを意識するようになったのは、まだ5歳の頃だった。運命というものがあるのなら、医者になることは私の未来だったのだろう。弁護士やエンジニア、サラリーマンになろうとは考えもしなかった。ただひたすら、医学の道一筋だった。父が医師だったので、その影響だろうか。そうかもしれない。父は私に医学の道に進むように説得したわけではない。父はただ、私たち7人の子供たちに対して、「自分の心の声に従え、そしてベストを尽くせ」とアドバイスした。
私は当初、医学部を卒業後、アメリカへ留学し、外科学を学ぶ予定だった。しかし、1973年に、先住民族や貧困層の人びとに奉仕するパラワン島での医療活動にボランティアとして参加した時、その計画は根本的に変わった。当時、私は大学3年生だった。私はずっとマニラ首都圏で育ち、家族と楽しい短期休暇を過ごしたり、ボーイスカウトでキャンプに行ったりする以外は、マニラ首都圏外で過ごすことはなかった。それゆえ、故郷を離れるのは本当に初めてのことだった。
― 病院船で村から村へ
ボランティアの医師や看護師と一緒に病院船で2ヶ月間パラワン島を旅行し、私は学生ボランティアの一人として、仮設診療所の設置や島から島、自治体から自治体への移動などを手伝った。私たちはパラワン島の東海岸を北から南へ、西海岸を南から北へ移動した。どの場所も、今でもフィリピンの中で最も美しい場所だ。
しかし、それらは現代医学をもたらす医師がほとんど訪れない場所でもあった。パラワンでの体験は、私の心、精神に大きな衝撃を与えた。 手つかずの海、きれいな白い砂浜、汚染されていない川や滝がある熱帯原生林の中で、多くの貧困、苦しみ、荒廃、マラリアや結核、栄養失調などさまざまな病気に侵されている人々や女性、子供たちを目の当たりにし、私はこの国に貢献しようと誓い、アメリカへ行く計画を断念した。
― 大半のフィリピン人の命を奪う肺炎や結核、下痢などを診る医師になる
1970年に医学部に入学した時、私はフィリピンのために医師になることを決意していた。しかし、パラワン医療ミッションで一緒だった外科医たちの影響で、まだ外科医になるつもりでいた。医学部3年目になると、フィリピン人の大半はごく一般的な病気で苦しんでいることに気づいた。1972年から1975年当時、手術が必要な疾患はわずか10%ほどで、人びとは肺炎や結核、下痢などによって命を落としていた。そして、医学部4年生になったとき、私は医学の専門性を追求したり、研修医プログラムに参加したりすることはせず、農村部に住むフィリピン人のための一般的な疾患を診る医者になるのだと自分に言い聞かせた。
― スラム街で医療ボランティアを育成、フィリピン農村宣教師団との出会い、そして、サマール島とレイテ島へ
フィリピン総合病院での最後の2年間(1974年~1975年)、クラスメートの数人がマニラのトンド地区にあるマグサイサイ集落で、都会の貧しい人々のためにボランティア活動をしていた。1975年初頭のある週末、フィリピン農村宣教師団に所属する3人のカトリック修道女のグループが、私たちの仕事場を訪れた。彼らは、私たちがトンド地区のスラム街でボランティアのコミュニティをベースとする医療ボランティアを育成していることを知った。そして、サマール島とレイテ島でコミュニティ・プロジェクトを行っており、一緒に働いてくれる医療者を探していると言った。私はすぐに、一緒に働きたいと申し出た。卒業後、医師国家試験に合格したら、マニラ以外で医療を実践する場所を探していたのである。これは、私の祈りと、農村部の貧しい人びとの間で生活し働きたいという願望に応えるものだった。
1975年7月、ついに私は、サマール島とレイテ島に着いた。医師国家試験の直後、私はサマール州のカルバヨグ行きの船に乗り込んだ。サマール島にはまだ空港がなく、海路で移動するしかない。バスが通れるような道路もなかった。 マニラからカルバヨグまで、船で24時間かかった。私は、宿泊先の司教の家へ行くように言われた。幸いなことに、フィリピン総合病院の同僚の看護師がカルバヨグ出身だった。彼女はカルバヨグの港にいる唯一の顔見知りだった。また、司教区の社会活動委員会の担当者に会い、サマール島やレイテ島の状況について説明を受けた。
― サマール島とレイテ島農村部での活動によって国軍の標的に
さて、ここで一旦、私の話を中断しよう。私が医学部に在籍していた当時、フィリピンではまだ戒厳令が敷かれていた。思い出してみてほしい。私は学生運動のリーダーで、フィリピン大学の学生評議会の委員長を務めていたが、マルコス・シニア独裁政権によって評議会は廃止された。だが、私はフィリピン大学理事会の最初の公式な学生理事になる機会を与えられた。
戒厳令の初期の頃について考えてみる。私は、フィリピン大学ディリマン校の他の学生活動家リーダーらと比べると、まださほど国軍から敵視されていなかった。まだ、「敵対人物リスト」には入っていなかった。私は、フィリピン大学の保健科学センターであるマニラ校の出身だった。フィリピン大学マニラ校にも学生運動指導者はいたが、フィリピン大学ディリマン校の指導者ほどには目立たず、有名ではなかった。フィリピン大学ディリマン校では、教員でさえ、当時は国軍に逮捕されていた。
他の学生活動家は、逮捕を避けるために地下運動に参加し、多くの者が山中の新人民軍(NPA)に参加した。NPAは、フィリピン共産党(CPP)と国家民主戦線(NDF)の軍事部門であり、マルコス独裁政権に対する武装闘争の都市部組織であるである。
大学学生評議会委員長を務めていた時でさえ、国軍から私への深刻な弾圧はなかったが、レイテ島とサマール島で3年間過ごした後、私の置かれた状況は変わった。国軍が、「逮捕・差し押さえ・捜索命令」(当時は「ASSO」と呼ばれて悪名高かった)を出して私を探し始めたのである。1978年、父が、「逮捕・差し押さえ・捜索命令」を自宅で受け取り、私は、あとからそのことを父から聞かされた。私の解釈では、当時の国軍情報部は私を追跡するのに非常に時間がかかったと思う。その捜索も効率的ではなかった。 私がのちにそのASSOを読んだとき、私に対する告発はすべて冤罪であり、そのすべてが私の医学生時代に行われたとされるものであると知った。これらの冤罪の例としては、a) ミスコン女王からNPA兵士に転じた女性の妊娠中絶に対する責任、b) フィリピン総合病院でNPAメンバーを治療したことなどである。
― サマール島を去る
1978年に、サマール島で流れた「国軍が私を探している」という噂は、私にとって、そこを離れ、フィリピンの他の場所に行くようにという合図だった。私は潜伏していたわけではなく、カトリック教会を基盤とする組織で合法的に活動していたことを忘れてはならない。しかしながら、もちろん、自分のことを知る人がいない地域で活動することで、私は逮捕から逃れてもいた。
つづく
〈筆者紹介〉
Jaime Z. Galvez Tan. 無医村地域における草の根のコミュニティ活動、国内外の保健計画、医学部と保健科学部の教員、西洋医学とアジアやフィリピンにおける伝統医療を組み合わせた臨床実践、国家保健政策開発、国家保健分野運営管理、民間部門の保健事業開発、研究管理、地方政府の保健開発などに携わる。また、NGOや世界保健機関、ユニセフ、国連開発計画などのコンサルタントに従事し、学界や政府機関とも連携してきた。著書・共著書に、Hilot: The Filipino Traditional Massage (2006)、Medicinal Fruits &Vegetables (2008)など多数。