トレリー・マリグザ(正義と平和のために働く女性たちのネットワークJaPNet議長)
-心や魂が自由な時、そして、それぞれの人が責任をもって彼ら自身の権利を行使する時、それを独立という-
1962年、ディオスダド・マカパガル元大統領が、大統領令により、フィリピン独立記念日を7月4日から6月12日へと移動させた。7月4日は米国がフィリピンの独立を承認した日だ。マカパガル元大統領は、独立は自国以外の国から与えられるべきでないと言った。さらに、この日は、自由と独立に対する固有の譲ることのできない権利を行使したいという私たちの願いを宣言した日であると、同大統領は述べた。1964年の共和国法第4166号において、この日をフィリピン独立記念日として定めることによって、独立記念日が定着した。
独立記念日を祝う。しかし、私たちは、真に独立したことなどあったのだろうか。3世紀以上前、この国は、平等主義な社会だった。だが、スペインがスパイスの調査をするためにやってきて、この国を征服した。米国や日本もここに来て、弾圧し、占領し、そして、人びとに影響を及ぼした。
私たちは、真に独立を祝うことなどできるのだろうか。
こんなにも、第三者に強くコントロールされ、影響され、自身の考えを押し殺すことに慣らされ、リーダーらは外国の政策に左右され、経済はほんの一握りの人びとに牛耳られ、政治家は自らの利益のみを追求し、貧困は蔓延し、選挙に関する無知が浸透し、私たちの社会心理が情報操作企業や歴史修正主義者によって形成され、まだ生まれていない子どもにまで負債を課し、思想が抑圧され、国内避難や超法規殺害が常態化し、資金は教育や健康ではなく戦争に注がれ、地球が血の雨を滴らせながら悲鳴を上げ続ける中で、私たちは、真に独立を祝うことなどできるのだろうか。
私たちは、どのようにしてフィリピン人なのだろうか。なぜ、フィリピン人という言葉さえ先住民族の言語ではないのだろう。私たちは、私たち自身の文化や、私たち固有のやり方や方法をどれだけ知っているのか。私たちがこの国に属していると示すための指標はいったい何なのだろうか。
【解説】
1543年、この諸島はスペインに植民地化され、スペインの皇太子フェリペの名にちなんで、現在の名の由来となった「イスラス・フェリピナ」と名付けられた。1898年6月12日は、エミリオ・アギナルド率いるフィリピン反乱軍が米国軍の支援を受けて300年にわたって続いたスペインの支配を終わらせ、アギナルドの故郷カビテ州でフィリピンの独立を宣言した日である。1962年に、この日がフィリピン独立記念日とされた。
だが、アギナルドらが独立を宣言した6か月後、米西戦争を終結させたスペインは、パリ条約においてフィリピンを2000万ドルで米国に売り渡した。フィリピンは米国に占領されることとなった。
1899年、フィリピンは米国に宣戦布告したが、1901年にアギナルド大統領が捕虜となり、1915年には米国がフィリピン全土を平定した。
第二次世界大戦中1942年から45年の間の日本軍による占領を経て、1946年7月4日、171回目の合衆国独立記念日にハリー・S・トルーマン大統領は正式にフィリピンの独立を承認する布告第2695号を発した。