松野明久(大阪大学)
第3回 果てしない「ジグザグ」交渉
アロヨ政権下で復活した正式交渉は2001年4月オスロで始まった。ここからベニグノ・アキノ3世政権期を含め2016年まで交渉は断続的にだらだらと続く。そのパターンは、信頼に関わる問題が発生し、それを乗り越えることができずに交渉中断に至るというものだ。実質的な議題において折り合わないから頓挫するのではない。実質的な議題に入る前に放棄されてしまうである。なぜ、そういうことになるのか。
― アロヨ政権期の交渉
アロヨ政権の要請により、2001年ノルウェー政府がファシリテーターになった。ファシリテーターであるので交渉を牽引しない。ノルウェー政府の控えめなスタイル、当事者の自主的合意達成を尊重する仲介方針はよく知られている。それと対照的なのがフィンランドのNGOクライシス・マネジメント・イニシアティブがアチェ紛争の仲介で示した強いイニシアティブである。アチェでは1年足らずで和平合意に到達した。仲介したアハティサーリ(元フィンランド大統領)は、最初に明確なゴールを設定し、それを両者が飲まなければ仲介は行わないと断言し、交渉が決裂しそうになると両者を叱咤したそうだ。ノルウェーの仲介は合意できる部分からひとつひとつ積み上げていく伝統的な手法なのである。
こうした手法が裏目に出ているとの見方もなくはない。しかし、当事者が納得しない合意はすぐに破綻する。それよりは時間がかかっても粘り強く真の合意に向けて着実に歩を進める方が早道ではないか。伝統的な手法にもそれなりの合理性がある。
さて、アロヨ政権期の交渉破綻のきっかけは9/11だった。世界は対テロ戦争一色に染まり、アロヨ政権がフィリピン共産党(CPP)や新人民軍(NPA)をテロ組織指定したことで交渉は不可能になった。左翼ゲリラとの妥協を望まない米国の意向に、もともと和平に後ろ向きな国軍が便乗したものと思われる。オランダ政府も、CPP-NPAの創設者で現在同国に亡命中のホセ・マリア・シソンの銀行口座を凍結した。もちろんこれは根拠のない措置ではなくて、安保理決議やEUディレクティブ(指示)にテロ組織への資金の流れを止める方針が示されていたことに依拠する。ノルウェー政府は(EUに加盟していないこともあり)CPP-NPAをテロ組織とせず、辛抱強く両者の非公式会合を繰り返し後押しした。しかし、結局、アロヨ政権はCPP-NPAを軍事的に制圧する道を選び、交渉は頓挫した。
― アキノ3世政権期の交渉
2011年、アキノ3世政権になって交渉は再開した。アキノ3世政権はモロ・イスラム解放戦線(MILF)との和平を大きく進めたことで知られ、CPP-NPAに加え幅広く左派を糾合した国民民主戦線(NDFP)との交渉にもやる気を示していた。そうした態度を見てか、シソンはゆっくりと進む正式交渉とは別に、スピード感をもって裏で話をつける「特別トラック」を提案した。それはノルウェーがイスラエルとパレスチナ解放機構(PLO)の秘密交渉を仲介してオスロ合意を実現し、世界を驚かせた手法を想起させる。政府は当初それに乗る構えをみせたが、シソンが産業国営化やCPPとの権力分有(連立政権)構想を後になって出してきたことに、これ以上の「付き合い」は危険だと思い、引いてしまったようだ。「特別トラック」はかえって両者の距離がまったく狭まっていないことを露呈してしまった。
また、2013年5月、ルソン島北部カガヤン州でNPAが警察の特別行動隊を襲撃し死者を出したことも政府を硬化させた。NPAは道路に埋めていた地雷を遠隔で爆発させ、その後に高台から銃撃を浴びせた。警察側死者8人、負傷者7人。同部隊は作戦中ではなく健康診断のために病院に向かう途中で、Tシャツ姿だった。内戦をしているわけだからこうした事件が起きても不思議ではない。ただ、作戦中でない警官を襲撃し殺害するというのは倫理性が問われる行動であるには違いない。
こうして交渉は次の政権に引き継がれることになった。
※第4回は12月11日(土)