松野明久(大阪大学)
第1回 紛争の歴史を辿る
2016年に再開した政府と共産党の和平交渉はその後あえなく頓挫した。政府は再び力の論理に戻り、現段階で交渉再開の見通しはない。なぜこうなってしまったのか。30年以上に及ぶ交渉はなぜ実を結ばないのか。こうした問いについて5回の連載で考えて行きたい。今回はその第1回。紛争の歴史を辿り、争点を確認するところから始めたい。
― CPPとNPAの結成−武装闘争路線への回帰
フィリピン共産党(PKP)が誕生したのは1930年である。弾圧を経ながらも、戦前は社会党と合流するなどして生き延びた。日本占領時代は抗日抵抗運動(Hukbalahap)の中核を担った。PKPの創設者クリサント・エヴァンヘリスタは日本軍に処刑されている。戦後、PKPはHukbalahapを人民解放軍へと再編し、議会闘争・武装闘争の両面作戦をとったが、弾圧によって弱体化し、1955年武装闘争を放棄した。しかし、これに不満を抱いたホセ・マリア・シソンが1968年暮れPKPを離脱し、新しいフィリピン共産党(CPP)を設立。そして翌年、旧人民解放軍兵士を集めて新人民軍(NPA)を結成した。当時の世界情勢を考えてみると、ラテンアメリカではキューバ革命(1959年)後左翼革命勢力が活発化し、中国では文化大革命がおき、ベトナムではテト攻勢(1968年)後アメリカの敗色が濃くなっていた。フィリピンの革命勢力が武装闘争路線への回帰をはかったとして、不思議はなかった。
― ホセ・マリア・シソン
CPPの設立者シソンは1988年にオランダに亡命して以後もCPPの司令塔であり、和平交渉の鍵を握る人物である。1959年フィリピン大学卒業、インドネシアに留学。当時、インドネシア共産党はスカルノ体制下で急成長していた。シソンは共産党が政権と連携しつつ、大衆組織を拡大し、農地改革などで戦闘的な行動を起こしているさまをつぶさに見たことだろう。帰国して大学教員をしながら政治活動に参加。ソ連派だったPKPに見切りをつけ、マルクス・レーニン・毛沢東主義を掲げ、CPPとNPAを設立した。そして反体制派を広く糾合して1973年、国民民主戦線(NDFP)を創った。
シソンはフィリピンをアメリカ帝国主義者、買弁ブルジョワジー、大土地所有者、官僚資本家が支配する「半植民地的、半封建的」な国だと規定した。アメリカの資本家がフィリピン国内の買弁ブルジョワジーと結託し、天然資源を搾取し、工業化を阻み、アメリカ製品を売りつけている。大土地所有者は彼らの最大の同盟者であり、こうした構造によってフィリピンは低開発に留め置かれ、貧困から抜け出せない。現状を打破し、革命を成し遂げるためには、労働者階級の指導の下、国民統一戦線によって勢力を結集しつつ、農村部を拠点として人民軍を育成し、都市を包囲するしかないと主張した。
1970年代から80年代、マルコス独裁政権下でCPP-NPAは勢力を拡大した。NPAは1980年代には2万を越える兵力をもつに至ったと言われる。当時、政権打倒のスローガンは大きな魅力だった。マルコス政権は腐敗し、強権的で、アメリカがそれを支えていたからである。シソンは1977年に逮捕され1986年まで獄中にいた。
― EDSA革命後
1986年にマルコス政権を打倒したEDSA革命はCPP-NPAを囲む状況を一変させた。まず、CPPは大統領選をボイコットした。そのため、選挙の不正に対する民衆の反発がうねりとなって噴出したEDSA革命において指導的役割を果たす機会を逃した。そして多くの活動家がその後開けた政治参加の道を選んだ。武装闘争の継続か、議会闘争への転換か。CPP-NPAは深刻な内部分裂にみまわれ、離反者を粛正するようになった。こうしたCPP-NPAの危機に、シソンは1992年、毛沢東主義を指針とした武装闘争の継続を打ち出した。その後シソンの路線を支持する「再確認派」はCPPに残り、「拒否派」は去った。大幅に勢力を縮小させたCPP-NPAは、農地改革の進まない地域や先住民族地域を拠点として闘争を継続していく。(続く)
〈筆者紹介〉
専門は国際政治、紛争研究。東ティモール、インドネシアを始め、東南アジアや中東、北アフリカの紛争を研究。フィリピンについては「フィリピン政府と共産党の和平交渉―長期化の背景をさぐる」『世界』(2020年12月号)がある。