【コラム】偽情報で塗り替えられた記憶

【写真】点滴瓶を利用して作ったランプとグリーンマンゴー=2016年、アンと過ごした山で、勅使川原香世子撮影。

勅使川原香世子(明治学院大学国際平和研究所研究員)

 今回のフィリピン全国統一選挙期間に、私の胸をざわつかせる出来事がありました。姉妹のように交流してきたアン(仮名、28歳)が、これまでの彼女からは想像できない言葉を発したのです。アンの記憶は、ネット上に蔓延する偽情報によって塗り替えられてしまったようでした。
 このコラムでは、選挙に関するアンと私の対話を紹介します。アンの経験は、偽情報が選挙結果に与えた影響の一面を伝えてくれています。

― 私の胸をざわつかせたアンの言葉:「収監されているデ・リマはドラッグ取引の大物」

 選挙に関する会話の中で、アンが私に言いました。「収監されているレイラ・デ・リマ前上院議員(以下、デ・リマ)はドラッグ取引の大物」、「レニ・ロブレド候補が大統領になったらデ・リマが釈放され、違法薬物が社会にいっそう蔓延する」と。
 デ・リマは、2012年にドラッグシンジケートから口止め料を受け取ったという容疑で2017年2月に逮捕され、それ以来収監されています。本人は容疑を否認、国内外の人権団体もでっち上げであると非難。さらに、同議員とドラッグ取引との関係について証言した3人の証言者は、すでにその証言を取り下げています。デ・リマは、ドゥテルテ前大統領がダバオ市長であった時から、超法規的殺害に関するドゥテルテの責任を先頭に立って追及してきました。それを妨害する嫌がらせが、デ・リマの逮捕・収監の理由であると考えられています。アンはそのことを知っていたはずでしたが、デ・リマに対する認識をまったく変化させていたのです。
 ここでは深く触れませんが、2017年9月、アンは当時住んでいた村で、共産党軍事部門新人民軍(NPA)のメンバーとされて、政府系民兵部隊(CAFGU)によって撃たれそうになりました。あの時、国軍兵士に狙撃を指示されたCAFGU民兵が引き金を引くことをためらったために、アンは命拾いしたのです。地元で育ったその民兵は、アンがNPAではないと知っていたので撃てなかったのです。このあと、この民兵は国軍駐屯地でリンチを受けています。アンは事件後この村に住めなくなり、たったひとりで身寄りもない地域に移り住みました。
 そんな目に遭ったアンであるにも関わらず、国家による暴力の被害者側に立ち、なおかつアンと同じく国家による暴力の被害者でもあるデ・リマへの不信感を募らせていたのです。なぜ、アンがこのような認識を持つようになったのでしょうか。以下は、アンとの対話です。

― アンさんは大統領候補の誰にも投票しなかったそうですが、どうしてですか?

 最初は、イスコ・モレノに投票しようと考えていました。でも、ドゥテルテに対する態度が年中変化するのを見て、モレノは信用できないと判断しました。私のボーイフレンドや彼の友人たちはみな「ボンボン」マルコスを支持していましたが、私は投票したくありませんでした。対抗馬のレニ・ロブレド大統領候補(当時、副大統領、以下、ロブレド)のことも信用できませんでした。ロブレドが、候補者討論会で他の候補者を批判するのを見るのが嫌でした。また、具体的な発言内容は忘れましたが、ロブレドの討論会での回答が的を射ていないとも感じました。
 副大統領にはウイリー・オン医師を選びました。医療者として、彼は人びとの健康をもっとも大切に考えてくれると思ったからです。

― 親しい友人たちが熱心にボンボン・マルコスを応援していると言っていましたが、アンさんはどうして彼に投票したくなかったのですか?

 フェルディナンド・マルコス・シニア大統領による戒厳令の時にどんなことが起こったのか、地元の人たちから聞いて知っているからです。でも、ボンボン・マルコス支持のボーイフレンドや彼の家族、友人たちは、「マルコス時代はインフラが整備されてよかった」などと肯定的な話ばかりしていました。私は、聞いているとフラストレーションを感じ、その話題になった時には席を外すようにしていました。
 かといって、反論することはできませんでした。なにしろ、みんながボンボン・マルコスを褒めているのですから。余計な論争をしたくなかったし、みんなを敵に回すこともしたくありませんでした。
 それに、ボンボン・マルコスを支持していないと発言したら、おそらく、「・・・ということは、ロブレド支持だ」と解釈され、「やっぱりフィリピン大学卒業生はNPA側に付く」などと言われるのがおちだと思っていました。ロブレドは、NPAの仲間だと信じられていましたから。フィリピン大学の学生や、NPAが潜伏しているとされる地域の人びと、左派らから支持されているという理由で、ロブレドが非難されているのを見てきました。まるで自分が責められているようで、私はとても嫌な気持ちがしていました。私自身これまで、選挙に関係なく、フィリピン大学卒業生だという理由で、NPAの仲間だとか、左翼の思想に洗脳されているなどと、親しい人からもからかわれたりしてきました。ボンボン・マルコス不支持=ロブレド支持=左派・共産主義者・NPA支持者という前提が出来上がっている中で、ボンボン・マルコスを支持していないということすら言えませんでした。

― アンさんは、「ロブレドが大統領になったら、デ・リマが釈放されて凶悪犯罪が増える」と言ったことがありますが、どうしてそう思うようになったのですか?

 私は、ソーシャルメディアで読んだ情報から、この国の多くの問題を解決するにはロブレド大統領候補では不十分であると思い、また、彼女が大統領になったら、デ・リマや多くの薬物依存者が釈放され、薬物関連の事件は悪化し、より多くの人が苦しむことになると結論づけました。私は、デ・リマが違法薬物取引に関与していたと信じていたのです。私がそう話したあと、あなたがいくつかの記事を送ってくれました。私はそれらの記事を読み、「そうだった。以前、私もこの記事を読んだ」と思い出して、デ・リマもドゥテルテ政権の犠牲者であると認識しました。
 私はソーシャルメディアにあふれる偽情報に洗脳されていたと今は思っていますが、正直言って、今回の選挙にあまり関心をもてなかったことも私が偽情報を信じ込んでしまった原因だと思います。選挙期間中、私は家族のことで大きな問題を抱えていて、社会で起こっていることに注意を払うことなどできませんでした。
 ボンボン・マルコスもロブレドも、結局は自分の利益のために大統領になりたいのだろうとしか思えず、最終的に私は、ボンボン・マルコスのこともロブレドのことも、大統領に選びませんでした。

― いまアンさんは、政府にはどんなことを期待していますか?どんな問題を解決して欲しいと思っていますか?そして、ボンボン・マルコス政権は、アンさんが考える問題を解決すると思いますか?

 私は、これからこの国がどうなってしまうのか心配でした。特にいま、歴史を修正し、「マルコス家は国によく貢献した」と国民に信じこませるように、偽情報が拡散されています。ボンボン・マルコスは選挙に勝ったのだから、彼が施政方針演説で言及した人権や正義、平和のために何をするのか観察するよりほかに、私には選択肢がありません。
 私は政府に対して、教育や医療の無償化、そして、国軍兵士だけでなく、医療関係者を大切にするよう期待しています。人びとを貧困から救い上げ、働く機会を与え、所得を向上させるためのプロジェクトを実施し、農民の所得を向上させるために出荷価格を上げ、農民に土地や肥料を与えてほしい。さらに、テロリズムを終わらせ、共産党との和平交渉を再開してほしいです。でも、これらの問題を解決するのは、不可能でしょう。

―「NPAの仲間だ、洗脳されている」などと言われた時、アンさんはどのように感じましたか?

 NPAのメンバーだとみなされる時、私は怒りを覚えると同時に、身の危険を感じてきました。私は生まれ育った村を出るまで、地域の恵まれない人びとのために医療を提供する仕事にやり甲斐を感じていました。でもそれは、国軍や国家警察などから良く思われませんでした。そういった人びとは、私が山間地域にいるNPAメンバーの世話をしているとみなしたのです。私は、疑われることに怒ると同時に、次に何が起こるのかと不安を感じていました。

― アンさんとの対話を通して思うこと:貧困層を冷たくあしらう行為は「踏み絵」

 私がアンさんとの対話の中で印象的だったのは、アンさんが、左派から支持されているとの理由で非難されるロブレド大統領候補の中に、自分自身を見出していたことです。アンさんは生まれ育った農村で、自らも経済的に困難な中にありながら、恵まれない人びとのために尽くしてきました。でもその行為は、高く評価されるよりむしろ、経済的に恵まれた人びとから差別の対象にされることを意味していました。農民や貧困層の側に立つと、国軍や国家警察、地主や自治体首長らから敵視されてしまうのです。「貧困層を冷たくあしらう」という行為は、権力者の側に立っていること、そして、NPAのメンバーやその支持者でないことを証明するための、踏み絵です。そのような地域において、貧困層の側に居続けることを覚悟して活動してきたアンさんには、相当の困難があったことでしょう。医療者として都市部の病院で働き、海外出稼ぎする道もあったのです。でも、彼女はそれを選びませんでした。
 アンさんは、ボンボン・マルコスを支持しないということさえ発言できなかったと言いました。「左派だ、共産主義者だ」として差別されることに、苦痛と身の危険を感じていたのではないでしょうか。投票日が近付くにつれてソーシャルメディアに流れるロブレド大統領候補への罵詈雑言は激しさを増し、「ロブレド支持=左派・共産主義者・NPA支持者」というイメージが拡散されました(【コラム】大統領選挙直前解説:「ボンボン」マルコス-サラ統一チームをめぐる争点は?, SAC, 2022年5月7日.)。ネット上の「あらし」行為によるロブレド候補への罵詈雑言やその他の大統領候補者によるロブレドに対する「赤タグ付け」は、ボンボン・マルコスを支持しないという人を黙らせ、ボンボン・マルコスを利する結果となりました。

〈筆者紹介〉
てしがわら かよこ。看護師としての勤務、ネパールでの医療支援活動などを経て、2004年、国際交流学部へ編入、その後博士課程へ。フィリピンや平和学と出会う。2004年以来フィリピンへ通い、特にネグロス島の人びととの交流をとおして、医療や健康、人権に関する問題について学んできた。もっとも虐げられた人びとの視点から社会を捉えなおしてみる、ということを大切にしたいと思っている。

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