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ドゥテルテとの決別で抑圧政策はどう変わるのか(2)
~西側諸国との妥協点を探るマルコスの許容範囲~
栗田英幸(愛媛大学)
3月29日の「ドゥテルテとの決別で抑圧政策はどう変わるのか(1)」では、親米路線を深めるマルコス政権が、これまでの不都合な人権侵害をドゥテルテ前大統領の所為にして、自身の責任を有耶無耶にしようとしていることを紹介しました。今回の続編(2)では、人道的被害に関してマルコス大統領が改善可能な領域とその限界について深掘りします。
マルコスの不都合な真実
― マルコス1年半の人権侵害データ
ここに示した表は、人権団体カラパタンが公表したドゥテルテ政権の6年間とマルコス政権の1年半での政府による深刻な人権被害について比較したものです。一番右の列(M/D)が、ドゥテルテ政権時の1年あたりの件数Dに対するマルコス政権時における件数Mの変化(比率)を示しています。
マルコス大統領が自賛するように、確かに多くの項目で大幅な改善(縮小)が見られます。緑色で示した9項目が半分以下にまで縮小した人権侵害項目です。半減まではほど遠いですが、国内外で最も注目されている超法規的殺害も84%へと減少を見せています。これが他の政治経済的な指標であれば、なるほど、良くできましたと賞賛されるべき改善かもしれません。
しかし、ピンクで示した2倍以上に増大した項目も4項目あります。家屋等の解体や無差別発砲に関しては、8倍前後にまで拡大を見せています。
そして、何よりも重要なのは、これが深刻な人権侵害の数値であるという点です。ドゥテルテ政権期と比べて比率は減少したとはいえ、これら全ての数値、絶対数は、未だに異常な水準にあります。それらは強く非難されるべきであり、決して称賛されるべき数値ではありません。
― マルコスの自画自賛への批判
最近のマルコス大統領の人権問題改善を自賛する発言に対しては、前項で示したマルコス政権期も継続する深刻な人権侵害のために批判が集中。ヒューマン・ライツ・ウォッチやカラパタンのような人権団体、国内外のメディア、そして、国連特別報告者も、現政権下の深刻な人道危機を強く批判しています。特に、ドイツでのオラフ・ショルツ首相との会合やフィリピン国家警察でのマルコスの自画自賛の発言の際には、厳しい反論や批判があちこちから発信されることとなりました。
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ドゥテルテとの決別で抑圧政策はどう変わるのか(1)~ドゥテルテに責任を押し付けるマルコス~(フィリピン・ニュース深掘り), Stop the Attack Campaign, March 29, 2024.
必要に迫られる妥協点の模索と障害
― 必要に迫られる妥協点の模索
「新冷戦」の下でフィリピンを西側に繋ぎ止めたい米欧等にとって、前節の表で示したマルコスの汚点は、自由・人権・民主主義の旗印に相応しくありません。西側諸国にとって、マルコス政権下も続く人道の危機的状況に対して、今後改善できる、すでに改善していると主張できるだけの根拠が、同盟のための妥協点として必要になります。マルコスの側も、中国による南シナ海での「悪辣な行為」がこれほど国民に周知されている状況の中で、今更、中国側につくことはできません。そんなことをしたら、またもや民衆革命が起きて、マルコスは、今度は中国に亡命せざるを得なくなってしまうでしょう。何としても西側につく以外の選択肢はないのです。
― マルコスには維持不可能だった抑圧政策
マルコスが西側陣営に留まり、自身の政治的基盤を維持するためには、自由・人権・民主主義に関する西側諸国との妥協点にフィリピンの人権状況改善を到達させることが不可欠です。そして、その妥協点到達への努力は、マルコスが言うように、政権発足当時から進められてきました。ただ、それは、マルコスが人権等を重視していたからではありません。
あまりにも無法なドゥテルテ政権期の抑圧的政策は、強面ドゥテルテだから可能だったので、軟弱イメージを拭い去れないマルコスには、維持不可能なものでした。マルコスの傍らにドゥテルテの娘サラという偶像がいなければ維持できるものでなかったのです。
もし、マルコスがドゥテルテの超法規的な作戦を前提としたドラッグ戦争や反共作戦を完全に継続していたら、規律を守らない者が増大している国軍や警察を、マルコスは掌握できずにドゥテルテの傀儡と化して、次期大統領選挙もしくはクーデターでドゥテルテ・ファミリーの誰かが大統領になるまでの繋ぎにしかならなかったかもしれません。したがってマルコスは、どうにかして超法規的な作戦をトーンダウンさせ、国軍と警察をドゥテルテから取り戻し、掌握しなければならなかったのです。
もちろん、それはトーンダウンでしかなく、法と人権を重視するところまでの回復を目標としている訳ではありません。回復が行き過ぎると、法による処罰は自身にも降りかかってしまいますから。
― 決別前のデータから読み解く
先の表で示したマルコス政権下での人道的な被害は深刻で、到底、受け入れられるものではありません。とはいえ、マルコスに対して極めて好意的に解釈すれば、前政権下に比べて超法規的な活動がかなり進めにくくなっているように見えます。証拠が残りやすく、実行者個人が立件され易い項目が減少し、逆に証拠が残りにくく実行者個人が立件され難い項目が増大していることから、そのように推測できます。例えば、少人数の犯行で、実行者が特定され易い殺害・殺害未遂、拷問等々は減少していますが、証拠が残りにくい脅迫や無差別発砲、大人数で組織的に行われて実行者が特定しにくい家屋の解体などは激増しています。
十分な証拠が残ってしまうと処罰される可能性が高くなった、言い換えるならば、超法規的な活動の行き過ぎが許されなくなってきた、もしくは、許されないような雰囲気がフィリピン国軍や警察内部に生じてきたということでしょう。これは、司法制度が多少なりとも機能するようになってきたことを意味します。
― 国連特別報告者の要請
今年2月2日、11日間のフィリピンでのヒアリング調査を終えたアイリーン・カーン国連特別報告者は、長きにわたり民主主義を標榜してきたフィリピンとマルコスの下での変化に敬意を払った後、言論や表現の自由に関して、フィリピンが未だ深刻な状況に直面しており、数多くの抜本的な改善が必要であるとの報告を行いました。
マルコスのドゥテルテとの決別が決定的になり、マルコスがドゥテルテの頚城から解放された政策をとれるようになったのも、この時期です。マルコスが、深刻な人道的被害をドゥテルテの責任に帰し、自身は民主主義の支持者として評価されるためには、カーン国連特別報告者からの耳の痛い改善要請に対して、全てではないにしろ、西側諸国が受け入れ可能な程度の改善の努力と結果を見せなければなりません。
カーン国連特別報告者の主な改善要請は、次のようなものでした。まず、改善に大きな影響を与えうる優先順位が高く、既に提出されている3法案の早期可決と施行です。それらは、人権活動家の更なる保護を求める人権擁護活動家法案、報道機関に「職場における人道的な条件」を求めるメディア福祉法案、そして、名誉毀損の非犯罪化法案です。彼女は、さらに、国への脅威に対して超法規的な手段で応じるこれまでの抑圧的な政策を否定し、赤タグ付けの即時禁止と地方共産党の武力紛争を終わらせるための全国タスクフォース(NTF- ELCAC)の廃止を要請しました。
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批判強めるドゥテルテ-アイミー-上院連合/批判かわすロムアルデス-下院議員連合/国連特別報告者フィリピン訪問の成果は?(フィリピン政経フォーカス), Stop the Attacks Campaign, February 14, 2024.
妥協点へのマルコスの改善努力と限界
― 諸刃の剣である司法による人道に関する断罪
マルコスとして最も重要なのは、ドゥテルテ陣営や中国の介入に対抗する自身の政権基盤の強化です。この最重要課題に役立つような改善から着手し、逆に政権基盤を揺るがす可能性のあるものに関しては、さすがに「やらない」とは言えないので、改善努力を見せつつも時間切れを狙うか、別の手段で誤魔化すことになります。
では、マルコスにとって回避すべき改善とは何でしょうか? 昨年までは、ドゥテルテの断罪につながるものが回避の対象となっていました。そして、ドゥテルテと決別した今は、ドゥテルテの断罪、たとえば、ICCへの引き渡しや国内司法での断罪が容易になったと思われる人も多いでしょう。しかし、ドゥテルテの処罰は、ともすればマルコス自身の処罰をも招く諸刃の剣になる危険を孕んでいます。したがって、超法規的な抑圧作戦を理由としたドゥテルテの告発や処罰は、マルコスには受け入れられないのです。人道にかかる法の支配を復活させる具体的で制度的な対応は避けたいはずです。例えば、人道的被害を裁くためにICCという国際的な制度を受入れる、また、新たな法を制定する、既存国内法執行を改善することになると、将来、自身もその新制度の下で裁かれる可能性が生じるからです。
― 改善可能な領域
マルコスが行えるのは、超法規的な作戦を断罪することではなく、超法規的な作戦は既に役割を終えたとして、人道的にも問題ない作戦、もしくは人道的に見える新しい作戦を作り出すことです。もしくは、作り出すフリをすることです。それこそ、今、まさにマルコスが国内外で必死にアピールしていることに他なりません。
NTF-ELCACを廃止するのではなく、共産主義平定の手段を、武力による直接的対決からコミュニティ支援による間接的対決へと大きく転換したとしています。警察についても同様です。ドラッグ戦争においても超法規的殺害のような暴力的排除から、予防とリハビリテーションの段階へ「完全に転換」したとアピールしています。
赤タグ付けについても、政府の作戦関係者ではなくマルコスから切り離された対象を「見せしめ」として処罰することで「抑制」に乗り出しています。2ヶ月前には、ドゥテルテ前政権のNTC-ELCAC報道官ロレイン・バドイが、NTC-ELCAC離任後も裁判官に赤タグ付けを行なっていた件で有罪判決を受けたと公表されました。また、テレビ番組で赤タグ付けを放送するメディア企業SMNIも、赤タグ付けと中国資本との違法提携を理由に放送免許を取り消されました。
― 更なる積極的な改善の可能性は?
抑圧的な政策を担う治安関係者たちに対して更なる暴力行使を命令していたドゥテルテと異なり、マルコスは、少なくとも危険な案件には近づかない慎重派です。現場で対応できずに混乱が生じた時にのみ介入します。介入も、最初は方針のみを示し、それでもダメな場合にのみ決定を下すのです。そして、人道的な被害には特に距離をとり、介入を避けているようです。現場を信頼する良い上司とも見えますが、むしろ失敗を衆目に晒されることを恐れ、責任逃れ第一のようにも見えます。マルコスは、よく「皆の意見を良く聞いて考えた」として介入しますので、少なくとも前者のような現場を尊重するリーダーのあり方を意識してはいるのでしょう。どちらの人物像が正しいにせよ、マルコスは、人道的な被害に対して、稀に方向性こそ示すことはあっても、自ら積極的に改善を行うことはなさそうです。
ドゥテルテから絶えずかけられていた抑圧的な圧力が失われたために、ようやく法の支配が息を吹き返してきているようです。それによってマルコスが自身の危険を感じない程度までは、今後も自然回復が進んでいくのではないでしょうか。しかし、大きな懸念も2点あります。1つは、クリスピン・レムリア司法長官がかつての赤タグ推進者であった点です。そのためマルコスが直接介入せずとも、レムリアが法の支配回復を妨害することは、大いにあり得ます。もう1点は、人権団体のマルコス嫌悪があまりにも強いため、マルコス断罪の機運が一気に高まり、大統領が自らの身の危険を感じる状況に追い込まれるかもしれない点です。そうなれば、マルコスがなりふり構わずに法の支配に介入するようになるのは明らかです。法の支配が自然回復する時間はあまり残されていないかもしれません。
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マルコス、人権政策を修正?/マルコスのオーストラリア訪問/混乱する上院(フィリピン政経フォーカス), Stop the Attacks Campaign, March 8, 2024.
〈Source〉
Philippine UPR Watch refutes PH envoy’s claims in UNHRC, Bulatlat, March 16, 2024.
Preliminary observations by the UN Special Rapporteur on freedom of opinion and expression, Ms Irene Khan, at the end of her visit to the Philippines, unchr, February 2, 2024.
Rights groups refute Marcos’ claim of ‘progress’ in ending drug war abuses, Philstar, March 14, 2024.
Rights delegation: Things are not better under Marcos Jr., Karapatan, March 16, 2024.
KARAPATAN (2024) THE MONSTERTOSITY OF FERDINAND MARCOS JR.: 2023 YEAR-END REPORT ON THE HUMAN RIGHTS SITUATION IN THE PHILIPPINES
KARAPATAN (2023) RODORIGO DUTERTE AND HIS CRASS LEGACY OF MASS MURDER AND STATE TERROR: TERM END REPORT ON THE HUMAN RIGHTS SITUATION IN THE PHILIPPINES