【Tita Seikoの侃々諤々】フィリピン連帯運動を振り返って

【写真】ベトナム反戦運動(通称「ベ平連」)の主要メンバーのうち約15人が集まり、海外の草の根の市民や活動家、ジャーナリストに向けて創刊された英文雑誌『AMPO』(日米安全保障条約の略称である「アンポ」の意)の表紙。/viaアジア太平洋民衆運動アーカイブ(AMPO-AP)

大橋成子(ピープルズ・プラン研究所)

先日、80年代にフィリピンの民衆運動に連帯し共に活動した人々と久しぶりに会い、当時のことを語りあう機会があった。

1972年の戒厳令以後、フィリピンの諸運動は否応なく非合法化されたが、全国でしたたかに組織化を進めてきた人々の闘いは、70年代後半から80年初頭にかけて、農民・労働者や貧困層だけではなく、キリスト者や知識人、進歩的な政治家を含めた広範な連合を作り上げた。国内の言論統制に抗して、民衆運動の状況を広く世界に伝える在外フィリピン人の活動もヨーロッパ・米国・アジアで活発になり、情報機関の一つとして、フィリピン問題資料センター(RCPC)が在外フィリピン人によって香港に設置された。(80年代初めに事務所は東京へ移転)

当時、私はアジア太平洋資料センターで仕事をしていたが、フィリピン国内外から送られてくる現地情報は、「開発独裁」の下で追いやられる人々、過酷な労働環境、米軍基地周辺での性暴力、搾取される小作農、キリスト者たちが中心となった政治囚救援、農村で拡大する新人民軍・・・と膨大な数に上った。それらが伝える根底には常に「人権」「正義」の問題があった。特に当時は、悪名高い予防拘禁法(PDA)による、令状なしの不当逮捕・勾留・拷問がいたる所で繰り返されていた。

さらに「サルベージ」という言葉を頻繁に聞いた。サルベージとは通常、沈没船の引き上げ作業や近年のIT業界では「データ復元」を意味するが、当時は、突然行方不明になり、その後死体が発見されるか、もしくは遺体さえ見つからない、といった「即決処刑」「見せしめのための殺害」にサルベージという言葉が使われていた。

こうした状況に呼応して、日本では、カトリック及びプロテスタント教会、仏教徒、弁護士、反基地運動、労働運動、農民、女性、各地の市民運動などが、課題を共有するフィリピンの様々な階層・分野の人びとと連帯するゆるやかなネットワークが作られ、1979年に「日本フィリピン問題懇談会(以下JCPC)」が結成された。当時、日本には様々な立場でフィリピンと繋がる運動が存在していたと思うが、ここでは私も関わったJCPCに即した連帯運動を紹介したい。

JCPCは、年一度の全国交流会を1990年代始めまで開催した。交流会には各地から34団体、60名近い代表が集まった。当時フィリピン側の国際連帯の窓口的存在だったEPIC(Ecumenical Partnership for Philippine Concerns 在マニラ)から代表が毎年来日し、現地の最新情勢を共有し、日本各地のネットワークを訪問して、日本の諸運動についても理解を深めた。一方、80年代には、戒厳令下にも関わらず、全国にKMU(5月1日運動)、KMP(フィリピン農民運動)が登場し、民主主義を求める諸個人・団体が広範に構成するBAYAN(新民族同盟)が結成された。

83年にマルコスの政敵ニノイ・アキノが暗殺されたことで、民主主義を求める運動は空前の広がりを見せていた。メーデーや国際人権デーなどは各国から参加する国際的取り組みとなり、JCPCのネットワークからも実に多くの人びとが顔の見える交流をめざしてフィリピン各地を訪問した。「エクスポージャー(自分の身をさらす)」と呼ばれた交流ツアーの参加者は、フィリピンの問題は日本の問題であることを否応なく気付かされた。

マルコス独裁政権を支えているのは、米国(レーガン大統領)と日本(中曽根首相)の政府援助であり、日本のODA(政府開発援助)とセットで進出する日本企業は公害輸出をもたらし、横須賀に配備されるトマホークはスービック米海軍基地と繋がっており、日本人男性の買春観光で女性たちは蹂躙されている・・・という様々な現実に身をさらした。

80年代初頭に起きた砂糖危機(砂糖の国際価格が暴落)により、ネグロス島で15万人の子どもたちが飢餓に瀕している状況が報告されたJCPC全国交流会で、日本ネグロスキャンペーン委員会は誕生した。

文化活動も盛んだった。フィリピン教育演劇協会(PETA)と日本の演劇集団黒テント、水牛楽団が繋がったことで、川崎製鉄がミンダナオ島で公害を垂れ流す現状を創作劇で上演し、PETAのアーティストが日本各地でフィリピンの現実を伝えるコンサートを開催した。

アイヌ民族と北部ルソン地方の先住民が、互いの歴史や価値観、文化を交流する場も作られた。フィリピン訪問団には、人権派弁護士や社会党議員も加わり、ODAや人権問題を国会議員が委員会で協議する場面もあった。

Our struggle is your struggle, your struggle is our struggle. (私たちの闘いはあなた方の闘い、あなた方の闘いは私たちの闘い)というメッセージをどこでも聞かされた。今では国際「協力」が一般的だが、当時は「連帯」がリアルに響いた時代だった。

1985年マルコス体制が崩壊し、86年コラソン・アキノ大統領が登場すると、JCPCの招きで、釈放された政治囚の来日が相次いだ。NPA(フィリピン共産党軍事部門新人民軍)元司令官ダンテ・ブスカイノ、解放の神学を説いたエドシオ・デ・ラトーレ神父、NDF(民族民主戦線)元代表ホラシオ・ボイ・モラレス、CPP(フィリピン共産党)創設者ホセ・マリア・シソン等々。さらに人権問題に身を捧げたシスター・マリアンニらもキリスト者の招待で来日した。彼(女)らを招いた各集会は、在日フィリピン人も多く参加し、毎回数百人が集まった。フィリピン問題への関心はマスメディアの中でも高く、毎回記者会見が成立した時代だった。

1980年代、高揚する民衆運動に突き動かされるように広がった国際連帯だったが、90年初頭にCPPが分裂したことによって、予想もしない深刻な影響を受けることになった。この分裂は、86年大統領選挙で打ち出したボイコット方針を巡る内部論争が引き金となり(コラソン・アキノを米国の傀儡としてボイコットするのが正解か、ピープルパワーに参画するべきだったか)、その後は、従来の持久戦による武装闘争を継続すべきか否かという根本的方針を巡って指導部内で対立した。結果、従来の方針を堅持する主流派(RA)とそれを拒否する派(RJ)に分裂し、これまでCPP、NDF、NPAの影響を大きく受けていた諸運動は、どちらにつくのか、という選択に迫られた。

当時ネグロス島に駐在していた私は、党方針が大衆運動まで下ろされる様子を目撃した。砂糖労働者や農民、漁民、都市貧困層の組織があれよという間に分裂していった。そしてこの選択は日本、欧米の連帯運動にも強いられることになった。

JCPCに集う各団体・個人は、これまで繋がってきた現地の人びとと情勢を共有し、自分たちの立場を確認しあった。「私たちはフィリピンの政治勢力と連帯してきたのではなく、具体的な課題を共有する地域のピープル(人びと)と信頼関係を作ってきた。よって私たちの選択は、ピープル・地域との直接の繋がりを続けていくことだ」と。

あれから30年。情勢は大きく変わっても、フィリピンの人権弾圧はとどまることがない。にもかかわらず、かつてのような国際的関心は薄まり、現場の声も届きにくくなった。そのなかで、SACが継続して発信する情報は、リアルタイムでフィリピンを知ることができる唯一のメディアだろう。SACの情報があるおかげで、私たちはフィリピンの現実、民衆の抱える問題に向き合うことができる。今後も貴重な情報発信をぜひ継続してほしい。

今回でこのコラムも最終回となりました。一年間ありがとうございました。

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