松野明久(大阪大学)
第2回 和平交渉の始まり
フィリピン政府によるフィリピン共産党(CPP)との和平の模索はコラソン・アキノ政権下で始まったが、本格的な交渉が始まったのはラモス政権(1992年6月〜1998年6月)になってからである。そしてラモス政権期、交渉はかなり進展した。その後、交渉はエストラダ政権期に一時頓挫し、アロヨ政権期に再開した。しかし、その後ラモス政権期に到達した合意のレベルから先に進むことはなかった。長引く交渉の中で相互の信頼は徐々に浸食されていった。
― 初期の合意
ラモス大統領就任から2ヶ月後、8月31日と9月1日の2日間、まずは予備交渉がオランダのハーグで行われた。オランダで行われたのはCPPの指導者ホセ・マリア・シソンが1986年以来オランダに亡命しており、CPPの他の指導者と共にユトレヒトに拠点をおいていたからである。背景にはオランダのカトリック教会の関与があった。予備交渉は順調に進み、9月1日にフィリピン政府と国民民主戦線(NDFP)は共同声明を発表した。共同声明は4つの交渉議題をあげた。すなわち(1)人権・国際人道法、(2)社会経済改革、(3)政治改革・憲法改正、(4)敵対行為停止及び武装解除である。この4議題はその後も変わっていない。ラモス政権誕生から2ヶ月の頃に交渉の実質的議題をここまで整理していたというのはむしろ驚きである。両者ともに問題の整理がかなりできていたと言える。
正式交渉はオランダとベルギーで場所を変えながら行われ、いくつもの合意文書を生みだした。NDFP側から和平交渉に参加する者たちの移動の自由を合意した「安全・免責保証協定」(1995年2月)、交渉場所・日程・参加者・議事進行等交渉の形式を合意した「交渉枠組協定」(1995年2月)、4つの実質的議題に対応する委員会の設置を合意した「相互作業委員会協定」(1995年6月)、安全・免責協定用身分保証書運用規定(1996年6月)、相互作業委員会追加協定(1997年3月)、そして国際人権法人道法遵守包括協定(CARHRIHL)と民間開発団体の社会経済プロジェクト支援協定(共に1998年3月)等全部で10個ある。とくにCARHRIHLは実質的議題の最初の項目であり、国際人権法、国際人道法の遵守を約束する内容になっている。
― 交渉の頓挫と再開
ところがエストラダ大統領就任の翌年、急激に和平ムードが後退した。1999年2月、新人民軍(NPA)がフィリピン国軍兵士・警官を拘束したことで、政府が和平交渉を一方的に停止すると発表したのである。NDFPは4月に兵士の釈放を命じたが、それが実行に移される前に和平が崩壊した。5月、上院が「訪問軍協定(VFA: Visiting Forces Agreement)」を批准すると、今度はNDFP側が交渉停止を発表したのである。訪問軍協定は米軍艦船・軍機のフィリピンへのアクセスを保証し、米軍人の査証制限を緩和する等、フィリピンで米軍が活動しやすいように各種措置を定めた地位協定である。米国との連携強化はCPPにとっては主権の侵害であり、信頼醸成に逆行するものだった。
和平交渉が再開するのはアロヨ大統領の時代になってからである。アロヨ大統領はもともと和平に前向きで、2001年1月に大統領に就任するとすぐに動き出した。それに呼応してNPAは拘束していた兵士・警官を釈放することに合意。しかし、なぜかここで軍は彼らの救出作戦を試み、3月、軍とNPAの銃撃戦で警官が負傷し、死亡するという痛ましい事件が起きた。その後兵士は釈放されたものの、警官の死は、真相究明の不透明さもあって、和平再開に影を落とした。
3月6日から9日、政府とNDFPはユトレヒトとハーグで話し合い、交渉を再開することに合意した。アロヨ大統領はノルウェー政府にその後の交渉仲介を依頼していた。仲介といっても正しくはファシリテーションであり、あまり強い仲介努力は行わず、あくまで当事者の自主的な和平努力に頼るという、ノルウェー流の控えめな関与の仕方である。こうして4月、交渉がオスロで再開されることになった。
※第3回は11月13日(土)
〈筆者紹介〉
専門は国際政治、紛争研究。東ティモール、インドネシアを始め、東南アジアや中東、北アフリカの紛争を研究。フィリピンについては「フィリピン政府と共産党の和平交渉―長期化の背景をさぐる」『世界』(2020年12月号)がある。