【コラム】眼の前で家族が拷問され
殺されたロラ・ナルシサの証言、
そして思い(前編)

【写真】リラ・ピリピーナの声明文と「花束」を日本大使館前に置くロラ・ナルシサ(右)と支援団体「フラワーズ・フォー・ロラズ」のテレシータ・アン・シーさん(中央)=2023年1月31日,、首都圏パサイ市在比日本大使館前,、筆者撮影.

福田美智子(パマナ・リン・タヨ:Pamana Rin Tayo)

 1月31日、フィリピン人「慰安婦」サバイバーの当事者・支援者の団体リラ・ピリピーナが、記者会見と在比日本大使館前でのデモを実施しました。これは国連の人権審査制度「普遍的・定期的レビュー」(UPR)に際して、日本が「慰安婦」問題の解決のための取り組みをするよう呼びかけるものでした。このUPRは、4年半ごとに全ての国連加盟国が「被審査国」となり、「報告者国」となっている3か国の政府から人権状況について審査を受ける制度です。
 リラ・ピリピーナはこれまでも、こうした国際的な動きや日本政府要人の来比などがあるたびに抗議活動を行ってきました。2015~2016年頃までは、デモとなるとジプニー3台ほどにロラ(フィリピン語でおばあさんの意味。ここではサバイバーのこと)やその家族、活動家達が乗り合わせて日本大使館前や大統領府前に集まったものですが、今回参加できたロラはお二人のみ。ロラ・エステリータ・ディとロラ・ナルシサ・クラベリアです。参加できるロラはだんだんと少なくなっています。
 今回はそのロラ・ナルシサ・クラベリアのことを紹介します。ルソン島北部アブラ州サンフアン町で生まれたロラ・ナルシサは現在93歳。今でもこうした抗議活動では最前列で声を挙げています。31日も大使館前でメディア関係者に囲まれたロラは「日本兵に対する怒りはまだあります。日本兵に娘としての尊厳を奪われたのですから。同じような被害が繰り返されないことを願っています」と語っていました。では彼女の被害とはどのようなものだったのでしょうか。過去の証言の書き起こしからお伝えします。

【写真】「慰安婦」サバイバーへの正義を求め,、軍事化や戦争に反対するシュプレヒコールをあげるロラや活動家たち=2023年1月31日,、首都圏パサイ市在比日本大使館前,、筆者撮影.

― 日本兵は父を縛り付け、皮膚を切り裂き始めた

 1943年でした。日本軍の部隊がゲリラ捜索で村にやってきて、人がいない家を見つけました。彼らはその家の者がゲリラだと疑って近所の人たちに居場所を聞いたもののわからず、村長をしていた私の父親のところにやって来ました。
 日本兵は「あの家の住人はどこに行った」と聞いてきました。父親は「知りません。私たちは離れて住んでいますから」と答えました。日本兵らはフィリピン人通訳とともにその家の人を1時間ほど探しましたが、結局見つかりませんでした。
 戻ってきた日本兵は 「お前の子ども達は全部で何人いるのか」 と通訳を通じて聞いてきました。父が「8人です」と答えると、日本兵は「子どもらを一列に並ばせろ」と言いました。私たちは並ばされましたが7人しかいませんでした。姉の一人がマニラに出稼ぎに行っていたためです。日本兵は「7人しかいないじゃないか、なんて嘘つきなんだ」と急に怒り出しました。父は「すみません。一人がマニラに行っているのを言い忘れました」と謝りましたが、おさまりません。二人の兄たちはどこかに連れて行かれました。日本兵らは、父の身体と足を縛り、家の柱に後ろ手にくくりつけました。日本兵の一人は銃剣を取り出し、喉から性器のほうまで父の皮膚を少しずつ切り裂いていく拷問を始めました。

【写真】毎年,、終戦の日に合わせて行うデモにて.。報道陣を前に思いを語るロラ・ナルシサ=2015年8月13日,、首都圏パサイ市在比日本大使館前,、筆者撮影.

― 母も幼い弟妹たちも日本兵の手に

 日本兵は「お前は本当に嘘つきだ。あの家の住人もお前の子供もゲリラで一緒に匿っているに違いない」と言いながら拷問を続けました。父は血だらけになり、「許してください、私たちに罪はありません」と訴え、助けてくれ!と泣き叫びました。私たち三姉妹は父親に駆け寄り、守ろうとしましたが無駄でした。
 そうしていると、家の中で母が叫び声をあげました。「夫よ、子どもたちよ、助けておくれ!彼らはどうしてこんなことをするの」と。私が一人で家の中に駆け上がると、母はスカートを剥ぎ取られ、日本兵がおおいかぶさっていました。そのまま母はレイプされました。この日本兵は、後に名前が分かるんですが、スガという名前でした。
 父がまた叫び声を上げたので私は駆け下りましたが、その途中、6歳だった弟のクレメンテと4歳だった末っ子ヘルニアの二人が棒切れを持って日本兵に向かっていくのが見えました。しかし弟と妹は、銃剣で刺し殺されたのです。その時、二人は「あー」と声を上げていました。

【写真】ロラ達は自身の正義の回復のみならず軍事化自体に反対しており,、比との軍事的な結びつきを再強化する米国の大使館前でデモをしたことも=2014年8月14日,、首都圏マニラ市在比米国大使館前,、筆者撮影.

― 火に包まれる村を見ながら連行され

 日本兵は血まみれの父をさらに拷問していましたが、彼らは私とエメテリアそしてエスメニアの三姉妹を少しずつ、家から引き離して行きました。その際、彼らから強く投げ飛ばされたようで、私は左腕の肘を骨折していました。私の腕は、そのとき以来変形したままです。この変形した腕を見るたびに、私は今も日本兵が家族に対してしたことを思い出さざるを得ないのです。
 私たち三姉妹はそのまま、街の中心にあった駐屯地に連れて行かれました。途中、父が「妻よ、子どもたちよ、どこにいる?苦しい、助けてくれ!」と叫ぶのが聞こえました。私たちの周りにはたくさんの日本兵がいました。村が見える最後の峠まで来た時、振り返ると村の方が煙で覆われていました。その時、父と母、弟と妹が焼かれてしまったのでしょう。(後編へ)

【写真】日本兵に痛めつけられた腕を見せながら学生達に証言するロラ・ナルシサ=2013年7月31日,、首都圏ケソン市ロラズセンター,、筆者撮影.

〈参考URL〉
(リラ・ピリピーナFBページ)https://www.facebook.com/lilapilipina1992
(リラ・ピリピーナウェブサイト)https://lilapilipina.org/

〈筆者紹介〉
福田美智子
「パマナ・リン・タヨ(PART)」設立メンバー
2013〜14年、フィリピンのアテネオ・デ・マニラ大学とコスタリカの国連平和大学の修士課程で「ジェンダーと平和構築」を学ぶ。アテネオ大在学中はリラ・ピリピーナの活動拠点でありロラたちのシェルターであるロラズセンターに下宿。卒業後もリラとの活動を継続し友人らとPARTを立ち上げた。
パマナ・リン・タヨ(PART)FBページ https://www.facebook.com/PamanaRinTayo

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