【コラム】「慰安婦」サバイバー、
ロラ・フェリシダッドの命日に寄せて

【写真】恒例のメンジョーラでのデモの先頭に立ち、テレビ局の取材を受けるロラ・フェリシダッド=2013年8月、首都圏マニラ市大統領府前、福田美智子撮影

福田美智子(パマナ・リン・タヨ:Pamana Rin Tayo)

 2年前の2020年2月1日、フィリピンの「慰安婦」サバイバー、フェリシダッド・デロスレイエスさんが亡くなりました。90年代に名乗り出て以来、「慰安婦」サバイバーの団体「リラ・ピリピーナ」で活動してきたロラたち(フィリピン語でおばあさんの意)は、一人、また一人と亡くなっています。リラ・ピリピーナの中心的メンバーだったロラ・フェリシダッドは、近年では活動を続けられるほんの数人のロラたちの一人でした。今回は、彼女のことをお伝えしたいと思います。被害の内容は、日本の弁護士による聞き取り(1994年)や、大学などでの証言、長年ロラたちの通訳を務めている澤田公伸さんからの情報提供に基づいています。

― 日本軍に翻弄されたロラの一家

 ロラ・フェリシダッドは、1928年、フィリピン中部のマスバテ島マスバテに生まれました。10人きょうだいの9番目の子どもでした。家では、警察や軍隊の制服をつくる仕事や農業などを営んでいたそうです。けっして裕福ではなかったものの、祖父母にもかわいがられ、幸せな子ども時代を過ごしていました。1941年、マスバテから島内のミラグロス町に引っ越します。戦争が始まるとミラグロスにも日本軍がやってきたため、ティナクリパンというところに疎開しますが、そこまでやってきたハポネスタ(日本軍に協力した比人)にミラグロスに戻るよう命令されました。
 町に戻ると、家財は壊され、家も豚小屋も焼かれていました。逃げたことでゲリラとみなされたのです。この時、彼女は14歳になっていましたが、ミラグロス小学校の2年生のクラスに入りました。それまで何度か小学校入学を繰り返したものの、戦争のために通学の中断を余儀なくされてきたのです。日本語を教える日本人教師もいたそうです。小学校は広く、日本軍は学校の敷地内の校舎の裏に仮設の建物を建て、駐屯地としていました。
 ある時、軍の高官が町に来るとのことで、町役場で歓迎会を行うことに。歓迎会にはトラック3台で日本兵がやってきました。演者に選ばれた彼女は、愛国行進曲「見よ東海の空明けて」の歌を披露。その時に7番という番号札のようなものを渡されます。

― 学校で呼び出されて被害に

 後日、授業の終わり頃に日本兵2人が教室に来て、「7番の生徒、一緒に来なさい」と呼ばれました。先生からも「おもちゃがもらえますよ」などと言われ、校舎裏の駐屯地に連れて行かれたのです。「なぜ他の生徒がいないのか!」と抗議し、兵士にひじ打ちするなど必死に抵抗しますが、頬を打たれ、腕や髪をつかまれて、一室に閉じ込められます。暗くなると3人の日本兵がやってきて、うち2人が彼女の肩と足を押さえ、一人が彼女をレイプし始めました。彼女はこの最初のレイプで気を失ってしまい、意識を取り戻した時には3人目の兵士にレイプされていました。
 翌朝朝食が出されましたが、食欲を失っていたうえ、豚のえさのようなもので、彼女は手をつけませんでした。4日目の朝に解放されるまで、朝食以外の食事が出されることはなかったそうです。2日目は5人の兵士にレイプされ、痛みで眠れなかったといいます。3日目は一日中、必死で解放してくれるよう懇願しましたが、兵士たちは笑うばかりで、彼女はひどく屈辱を覚えました。その夜も3人の兵士が部屋に現れ、触らないでと頼む彼女を笑い、レイプしました。

― あまりのつらさに自殺未遂も

 解放されたのは4日目の朝でした。彼女に熱があることがわかり、何かの病気に伝染していると兵士らが恐れたためでした。帰る時には「誰かに話したら親を殺す」と脅されました。母親に再び会えた時には、抱き合ってずっと泣き続けたといいます。
 戦後、ロラ・フェリシダッドは再度学校に戻ったものの、日本兵に監禁されたことをまわりに噂されていたたまれなくなり、また、被害を思い出してはつらくなり、海で入水自殺を試みたこともあったのだそうです。結局、被害に遭った故郷にい続けられずに、彼女は一人マニラに渡りました。

【写真】アテネオ・デ・マニラ大学から表彰式に招かれたロラ・フェリシダッド(中央)と仲間のロラたち。この3人のロラは皆すでに他界された=2012年8月13日、首都圏ケソン市、福田美智子撮影

― 必死で働き、子を育てた戦後

 リラ・ピリピーナの現在の代表シャロン・カブサオ=シルバさんからロラ・フェリシダッドの訃報が入ったのは2020年2月初め。マニラ首都圏に隣接するリサール州アンティポロ市のお宅に急ぎ駆けつけると、家族(ひ孫まで)や親戚、近所の人たちがたくさん集まっていました。いつも集会やデモでロラ・フェリシダッドに付き添われていた娘さんもおられ、母親としてのロラのお話を伺うことができました。
 マニラで働くようになったロラ・フェリシダッドは、1956年に運転手の仕事をしていた男性と結婚、6人の子どもに恵まれます。しかし、夫は65年に他界。その後は一人親として裁縫の仕事をしながら子どもたちを育てあげました。娘さんによると、お酒・タバコなどには全く手を出さず、とにかく一生懸命働いていたそうです。
 多くの被害者は、レイプ被害を恥とする文化の中で家族や地域社会とのつながりを絶たれ、教育の機会を失い、必死で生き抜いてこられました。ロラ・フェリシダッドもその一人です。さらに、日本との関係を重視するフィリピン政府は、サバイバーを支援することはありません。多くのサバイバーが、お米を買うにも苦労するほどの生活の中で、それでも勇敢にカミングアウトをし、長年活動を続けてこられたのです。

【写真】足踏みミシンで作業するロラ・フェリシダッド。娘さんによると来日時に着るよそ行きの服も自分で仕立てるほどの腕前だった=2007年3月5日、アンティポロ市、柴﨑温子撮影

 被害者に呼びかけるテレビ番組を観て、勇気を出して名乗り出たロラ・フェリシダッド。リラ・ピリピーナでは、裁縫の技術を活かして活動資金づくりのプロジェクトで活躍し、国内外での証言活動にも精力的に取り組んでこられました。ロラ・フェリシダッドの声はとても小さく優しい声なのですが、証言中、学生たちが食い入るようにロラを見つめ、耳を澄ませていた様子が思い出されます。
 そんなロラが、活動の初期に日本の弁護士による聞き取りに答えてこうコメントしています。「抗議活動の時、私は他のメンバーたちとの連帯を強く感じますが、同時に複雑な気持ちになります。その度に私が経験したことを思い出さなくてはなりませんし、仲間の女性たちのつらい経験を聞かなければなりませんから」。ロラが心の痛みと仲間への思いを持ち続けながら闘っていたことがよくわかり、胸がつまります。
 来日は、2014年に国際法曹協会の東京での会議に招かれたのが最後になりました。その後少しずつ体力の衰えなどは見られましたが、娘さんに付き添われ、できるだけリラ・ピリピーナの活動には参加されていました。体調を崩されたのは2020年1月の終わりで、2月1日に肺炎で亡くなりました。91歳でした。
 ロラ・フェリシダッドの命日を前に、あらためて、ロラたちの「絶対になかったことにはできない」「絶対に次世代が戦時性暴力で苦しむことがあってはならない」という強い思いを、自分ごととして受けとめなければと思います。

【写真】ロラ・フェリシダッドの棺に寄り添って立つ、娘のベイビーさん。棺の下にはリラ・ピリピーナからの献花が飾られていた=2020年2月、アンティポロ市、澤田公伸撮影

〈Source〉
リラ・ピリピーナFacebookページ
https://www.facebook.com/lilapilipina1992/videos/?ref=page_internal

〈筆者紹介〉
福田美智子
「パマナ・リン・タヨ(PART)」設立メンバー
1999年より日本の植民地・戦争責任の問題に関わる。2013〜14年、フィリピンのアテネオ・デ・マニラ大学とコスタリカの国連平和大学の修士課程で「ジェンダーと平和構築」を学ぶ。アテネオ大在学中はリラ・ピリピーナの活動拠点でありロラたちのシェルターであるロラズセンターに下宿。卒業後もリラとの活動を継続し友人らとPARTを立ち上げた。

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