福田美智子(パマナ・リン・タヨ:Pamana Rin Tayo)
フィリピンでは3月1日より、首都圏を含む多くの地域で新型コロナの警戒レベルが1に緩和され、日常が戻りつつあります。「慰安婦」サバイバー団体のリラ・ピリピーナでも、当事者のロラ(比語でおばあさん)が参加する活動を再開しました。3月23日には、首都圏ケソン市の人権委員会で次期大統領候補への公開書簡に署名するセレモニーを開催し、各候補に「慰安婦」問題への対応を求めました(日刊まにら新聞の記事はこちら)。
この署名式に参加したロラがエステリータ・ディさん(92歳)で、今でも活動に参加できる数少ないロラのお一人です。今回は彼女のことをお伝えします。
― 戦争で仕事を失った一家
ロラ・エステリータは、1930年、西ネグロス州の州都バコロドに近いタリサイで生まれました。父親と二人の兄はサトウキビ農園で働き、母親はその農園内でサリサリ・ストア(雑貨店)を営んでいました。幸せな暮しだったといいます。
しかし1942年に日本軍が来ると生活は一変。製糖工場が軍に接収され、サトウキビ収穫の仕事がなくなりました。仕方なく一家はミヌルワンという地区に家畜を連れて疎開しました。そこでのロラの役目は、17羽の雌鶏を世話して卵を産ませること。時おり日本兵が来て、砂糖、塩、醤油と、ロラの鶏や卵との交換を求めたそうです。
これに応募し、工事に使用する岩や大きな石を、近くの川から運び上げる仕事をしました。報酬は1日約500グラムの米でした。ところが1944年のある日、米軍機が飛行場上空に飛来し、「日本軍のもとで働くのは危険なのでやめるように」と警告するビラを落としていきました。それを受けてロラたちは仕事を辞め、野菜を育てて鶏を飼う疎開生活に戻りました。
― ゲリラ容疑者の虐殺を目の当たりに
1994年の10~11月頃、ロラが卵や野菜を市場に売りに行った時のことです。ここからロラの証言を引用します。
「ある日、私が市場で物売りをしていると、日本軍のトラックが市場正面のプラザ(広場)に止まりました。近くには教会もありました。日本兵は、トラックに乗せたフィリピン人男性たちを下ろしました。彼らはゲリラの容疑をかけられて捕まっていたのです。日本兵は、教会の近くにある井戸のそばにその男性たちを並ばせ、銃剣で一人一人、彼らの首を切っていきました。それを見て逃げ出した人も銃剣や銃で殺されました。」
― 力ずくでトラックに乗せられて駐屯地へ
「私は、それを市場の柱の影に隠れて見ていました。ところが、一人の日本兵がこちらを見張っているのに気づきました。恐ろしくなって逃げ出しましたが、転んでしまいました。日本兵は私の髪の毛を掴んで立ち上がらせ、私の手を十字に組ませて無理やりトラックに連れて行きました。日本兵の力が非常に強く、抵抗してもトラックに乗せられてしまいました。他にも何人かのフィリピン人女性が捕まっていました。トラックはそのまま、日本軍が駐屯していたタリサイ製糖工場に行きました。
駐屯地に着くと、部屋がたくさんある建物に連行されました。ある部屋に押し込まれ、一時間くらい経った頃です。一人の日本兵がやってきて私を木の床に押し倒し、レイプしました。彼が立ち去ると二人目の日本兵が現れ私をレイプしました。その後、3人目、4人目がやってきては私をレイプしました。」
―「日本兵に抵抗してはだめよ。殺されるから」
「何人もの兵士にレイプされて体がとても痛く、これ以上我慢ができないと思い、ある兵士に抵抗しました。その日本兵は非常に怒り、私の両耳をひっつかむと、近くにあった机に私の頭を叩きつけました。私はその衝撃で気を失いました。意識を取り戻すと、もう日本兵はいませんでした。
その後、一人のフィリピン人女性が私に近づき、私に『日本兵に抵抗してはだめよ。殺されるから』と言いました。それ以降、私は抵抗しなくなり、レイプされる時は自分の顔を覆い隠していました。昼間は掃除や洗濯をさせられ、後で殺されるのではという恐怖もありました。
ある日、私は夢を見ているのではないかと思いました、駐屯地は空っぽで、米軍が閉じ込められた人々を解放しているところでした。そこで私は一人で歩いて自宅へ帰りました。母親は私が殺されたと思っていたので、私を見てとても驚いたのを覚えています」(引用終わり)。
― 恥じる気持ちから、正義を求めたいという思いへ
終戦後、ロラは再び小学校に入り卒業しましたが、悪夢を見ているような状態がずっと続いていたといいます。1949年、19歳の時、起きたことを忘れたいと地元を離れてマニラに出稼ぎに行くことにしました。まずは子守りの仕事に、その後、マニラの大きな市場ディビソリアの靴屋の仕事に就きました。その時に結婚、5人の子どもに恵まれます。しかしその後、夫と別れ、ロラはシングルマザーとして生きてきました。
1992年のある日、ロラは、フィリピンで最初に元「慰安婦」として名乗り出たマリア・ロサ・ヘンソンさんが、被害女性たちに名乗り出て一緒に闘おうと呼びかけているのをテレビで聞きました。ロラは非常に驚き「どうしてそんな恥ずかしいことを」と思ったそうです。しかし、次第に「ロラ・ロサの言ったことは正しいんじゃないか、私たちは正義を求める権利があるんじゃないか」と思うように。一年後、窓口となっていたタスクフォース(「フィリピン人慰安婦問題対策協議会」)の門を叩き、組織がリラ・ピリピーナに改変された後も、活動を続けてきました。
― 心の自由を失わなかったロラ
ロラ・エステリータは、私がロラ達のシェルターであるロラズセンターに住んでいた頃に、最も長い時間を一緒に過ごしたロラです。いつもは掃除や炊事、ネズミ退治などに動き回り、下宿人の私にフィリピン語を教え……と、明るくパワフルなロラですが、証言では、日頃は決して見せない、とてもつらそうな表情になります。度々証言授業を企画した私は「いつまでロラにこんなつらい思いをさせ続けているのか」と自問自答せざるを得ませんでした。
こんなこともありました。ある日、台所でロラが何気なく話し出しました。「私はいつもズボンだし、髪もずっとショート。夫はスカートをはけと言っていたけど聞かなかった。この方が気持ちいいからね。私は昔からおてんばで、日本軍がいた時、私の姉妹は捕まるのをおそれて顔に炭を塗っていたけど、そんなこともしなかった」と。私はこの何気ないロラのおしゃべりに感動しました。戦争中という危険な状況でも活動的で自由にふるまう少女だったロラ。ところが、軍による性暴力という極めて残虐な形の「性差に基づく暴力(gender-based violence)」の被害に遭い、家族と故郷から離れて大変な思いをして生きることになりました。それでも、小さなことかもしれませんが、「夫の言うことを聞かずに、自分の好きなようにした」という点に、私は「ロラは心の自由や自分を大切にする強さを失わずにいたんだ」と心を打たれたのです。
ロラ・エステリータと暮すなかで、「被害者」「サバイバー」と呼ばれる女性達が、いきいきとした個性や強さももった一人一人の人間だということが深く実感できたように思います。ロラ、これからもよろしくお願いします。
〈Source〉
参考URL(リラ・ピリピーナFBページ)
https://www.facebook.com/lilapilipina1992/videos/?ref=page_internal
〈筆者紹介〉
福田美智子
「パマナ・リン・タヨ(PART)」設立メンバー
1999年より日本の植民地・戦争責任の問題に関わる。2013〜14年、フィリピンのアテネオ・デ・マニラ大学とコスタリカの国連平和大学の修士課程で「ジェンダーと平和構築」を学ぶ。アテネオ大在学中はリラ・ピリピーナの活動拠点でありロラたちのシェルターであるロラズセンターに下宿。卒業後もリラとの活動を継続し友人らとPARTを立ち上げた。