全5回連載 フィリピン和平交渉の
行き詰まり−何が問題なのか(4)

【写真】フィリピン政府とフィリピン民族民主戦線との第4回公式和平協議 オランダにて=2017年4月/via Office of the Presidential Adviser on Peace Process

松野明久(大阪大学)

第4回 希望に満ちた船出からどん底へ

 2016年6月に発足したドゥテルテ政権は、早速、幅広く左派を糾合した国民民主戦線(NDFP)との和平交渉を再開させた。再開後の1回目の交渉は8月22-26日にオスロで行われ、すべての過去の協定を再確認し、社会経済改革、政治改革・憲法改正、敵対行為停止及び武装解除という3つの「実質的議題」に対応した相互的作業委員会を開催した。ドゥテルテ大統領はかつて教師だったシソンの教え子でもあり、また反米というスタンスにおいて共通する部分もあったから、和平に意欲を燃やした。当時を知る関係者からは、大統領の和平への思いは本当だったという回顧も聞かれる。

― 最初のつまづき

 交渉は10月の2回目までは順調に進んだが、2017年1月19-25日の3回目に問題が発生した。3回目には、和平交渉の一環として2016年に釈放されていた武闘派のフィリピン共産党(CPP)-新人民軍(NPA)の指導者ベニト・ティアムソンと妻ウィルマの2人が参加していた。彼らが首を縦に振らなければ交渉は成立しない。この時、まずいタイミングで事件が起きた。交渉中の1月21日、コタバト州マキララで国軍とNPAが衝突し、軍側に8名、NPA側に1名の死者が出たのである。国軍がNPAを追いかけて彼らの活動地域に入り込み銃撃戦となったのだった。それが直接の理由ではなかったが、3つの作業部会が上げてきた合意案のうち、停戦案をベニト・ティアムソンは承諾しなかった。そして4回目の交渉でなんとか停戦についての合意が成立したものの、政府が気にしていた革命税の議論は先延ばしとなった。

― 交渉の打ち切り

 5回目は2017年5月26日からオランダで行われるはずだった。しかし、ここでマラウィ事件が発生した。5月23日からミンダナオのマラウィ市で国軍とイスラム過激派組織の銃撃戦が始まったのである。ドゥテルテ大統領はただちにミンダナオ全域に戒厳令を敷いた。戒厳令は令状なしの拘束を可能とするもので、CPP側は、戒厳令がマラウィをはるかに越える範囲に敷かれたことを批判した。ドゥテルテ大統領は予定されていた第5回交渉を突如中止。そして2017年12月5日に宣言374号によってCPP-NPAを正式にテロリストに認定した。
 不思議なことに、交渉のバックチャネルは機能し続けた。政府側交渉担当者たちの熱意もあり、大統領もまだ未練があったようである。その結果、2018年6月9日には交渉再開の合意が交わされた。ただ、政府は交渉をフィリピン国内で行うことを主張した。背景には、政府は政府交渉団の旅費を自ら払っており、総勢数十名を引き連れて毎回ヨーロッパまで行くことへの不満があった。予想通り、NDFPはこれを拒否した。

― 紛争への回帰

 それから人権侵害がいっそう多発するようになった。2018年10月20日には西ネグロス州のサガイで砂糖労働組合のメンバーたち9人(2人は子ども)がテントで休憩中、銃をもった一団に襲われ殺害された(サガイ9事件)。同年11月6日には同事件を担当していたベン・ラモス弁護士が殺害された。そして2018年12月4日、ドゥテルテ大統領は「ホール・オブ・ネーションアプローチ」(政府・軍・地方行政・市民が一体となって共産主義を撲滅する政策)を発表し、和平プロセス担当大統領顧問に国軍参謀総長のカルリト・ガルベス・ジュニア氏を起用した。それまで同顧問を務めていたジーザス・ドゥレザ労相は部下の不正疑惑で辞任していた。新しいアプローチは、国軍主導で「ローカル化した和平協議」の名の下に、NPAの摘発を行うということに他ならなかった。やがて交渉のバックチャネルも閉じられた。そして、政府・国軍はCPP-NPA関係者及び人権団体等に「共産主義者」のレッテルを貼り、厳しい弾圧に乗り出したのである。

第5回は1月15日(土)

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