Sea Blue
ここに記載する内容は、あるフィリピン人女性、Aさんの経験ではあるが、関係者に不利益が及ばないよう筆者も含め仮名とさせていただく。
Aさんは、東京から電車で2~3時間の、ある県に住んでいる。料理が趣味で、日本語も読み書きは難しいが、話すことはできる。
― フィリピンでの生活
Aさんは小さい頃、父母との関わりはほとんどなく、姉と妹、2人の弟と共に祖母に育てられた。父は幼少のころ他界し、祖父も母も所在が不明である。病気はしなかったが、4~5歳のときに左肘を骨折し、適切な治療を受けることができなかった。結婚をして子どもも生まれたが、夫婦仲は冷え切っていた。
― 姉の手配で来日
2005年頃、縁の薄かった姉から連絡がきた。姉は日本で働いており「フィリピンでは仕事もないし、夫婦仲も悪いのだったら、日本に来て働いたらどうか」と誘われた。フィリピンの法律では離婚することはできないし、仕事もほしかったので、姉の誘いにのり、パスポート用の4枚の写真を送った。後日、送られてきたパスポートには、Aさんの写真が貼られてはいるが、Aさんとは違う名前が記載されていた。Aさんは不思議に思い姉に尋ねると、心配しなくても大丈夫だからと言われ、何人かの女性と共に飛行機に乗って、日本に向かった。Aさんは理解できていなかったが、偽造パスポートだった。
― 偽造パスポートを取り上げられて
日本では、姉から紹介された地方のフィリピンパブで働いた。そこで知り合った日本人男性Bさんからアプローチを受け、付き合うようになる。しかし、姉は何故かBさんを嫌い、Bさんと付き合うのだったら100万円を支払えと言われた。Bさんと共に何とか支払うと、次は250万円を要求された。断るとパスポートを取り上げられた。姉の紹介で働いていたパブでも働けなくなり、姉から逃れ、別のフィリピンパブで働いた。自分で借りたアパートに、Bさんは週に5日やってきて内縁関係が続き、2009年に妊娠した。
― 受理されない出生届
Bさんがアパートにいたとき、Aさんはお腹が痛くなり、救急車で病院に運ばれた。帝王切開で出産したが、Bさんが付き添ってくれていたので安心だった。子どもは、小さい女の子だった。AさんとBさんは婚姻関係がなかったため、BさんはAさんの子として市役所に届けを出したが、受理されなかった。Aさんはパスポートも何も持っていなかったからである。東京のフィリピン大使館にも届けを出すために行ったが、フィリピンから証明書など必要書類を取り寄せるのに、フィリピンの弁護士を介す必要があり、その費用が捻出できず断念した。病院からも出生証明書はもらえなかった。理由はわからないが、健康保険証を持っていなかったため高額な出産費用を全て払えなかったからかもしれないと、Aさんは考えている。
― Aさんの今
無国籍だった子どもはBさんに認知され、色々な人のサポートを受け、6歳の時に日本国籍を手に入れることができた。
Aさんは2017年から4年間、入管に収容されていた。現在、仮放免中であるが、昨年(2021年)、16年ほど連れ添った内縁関係のBさんが亡くなった。仮放免とは一時的に収容を停止して身柄の拘束を解く措置で、就労は許されていない。入管で受けた暴力の後遺症や子どものころ適切に治療できなかった腕などの治療が必要だが、収入がなく、健康保険証もないため、ままならない。医療費や住居は、日本人から支援を受け何とかやっているが、これからどうしたらいいのか途方にくれている。
― 「不法滞在者」の背景
Aさんの姉はブローカーの仲間だったのだろうか。Bさんには別の家庭があったのだろうか。Aさんは、カテゴライズするならば「偽造パスポートで来日した不法滞在者」である。しかし、その背景には、圧倒的な貧困と教育の不十分さがある。偽造パスポートを使ったらどうなるかという想像力があったら、ブローカーにまつわる知識があったら、日本の婚姻制度を知っていたら、子どもの出生届を出そうとしたときお金があったら、法的な知識があったら、日本語を良く理解できたら、Aさんの人生は変わっていたのであろう。
Bさんが亡くなってしまったので、Aさんはフィリピンに強制送還される心配もある。しかしAさんは、すでに約20年間、日本で生活している。フィリピンの家族とも連絡がとれず、知り合いもいない。フィリピンでは、子どもを育てながらの生活は難しい。しかも子どもは日本国籍で、日本語しか話せない。日本は、家族生活の尊重を規定している市民的及び政治的権利に関する国際規約(自由権規約)や子どもの権利条約を批准している。
非正規滞在者の来日のプロセスや滞在理由は様々である。個別の事情を鑑み人権を重視した対応をしていく必要がある。