福田美智子(パマナ・リン・タヨ:Pamana Rin Tayo)
前編では、日本軍「慰安婦」サバイバー、ロラ・ナルシサ・クラベリアが姉たちと日本軍に連行されるまでの証言をお伝えしました。家畜を飼い、トウモロコシなどを育てていた両親ときょうだいたちとの生活は、日本兵が来たことで瞬く間に破壊されました。父親が拷問を受け、母はレイプされ、幼いきょうだいが殺害されるのを目の当たりにしながら、少女だったロラ・ナルシサは日本兵に捕まったのです。
後編では、ロラが日本兵に連れ去られてからの体験をお伝えします。
― テラサキという日本兵にレイプされた
駐屯地に着くと、二人の姉はそのまま駐屯地の建物に連れて行かれ、私だけが向かいの小さな民家に連れて行かれました。左腕を怪我して腫れあがっていたからです。一緒にいたテラサキという日本兵がフィリピン人の助手のような人を連れてきて、ココナツ酒などで腕の治療をさせました。傷が治りますと、テラサキが来て「お前、臭い。身体を洗って来い」と言いました。服は全て焼かれて着替えがなかったので水浴びは嫌でした。すると彼は「カンソンシリョ」と呼ばれる衣類(当時のフィリピンの着物)三着と、彼の軍服を一着、私に渡しました。
私が川で身体を洗うと、テラサキはまず民家で私をレイプしました。その後、私を駐屯地の中に連れて行きました。姉のエメテリアと再会することができましたが、話せませんでした。他の女性に話しかけることは禁じられていたからです。話しているのが見つかると、馬の鞭でひどくたたかれたのでした。
― 姉は精神を病んだ
その後、駐屯地の中で、多くの日本兵から毎晩のようにレイプされる日が続きました。昼間や朝は、炊事や洗濯、掃除、アイロンがけなどの雑用をさせられました。私は夜が来るのが嫌でした。もちろん逃げ出したかったのですが、日本兵がたくさんいて無理でした。
ある日、一人のフィリピン人女性が逃げてからは、監視は非常に厳しくなりました。そして、食べ物がだんだんと少なくなって行きました。日本兵は遠くの村までフィリピン人男性を派遣して食べ物を探させ、収穫物や食べ物があると、部隊は一目散にその場所に駆けつけていました。ある時、ある村に食べ物があると報告されると、日本兵は私たち女性も連れて、一日かけてその村まで行きました。私たちは裸足で行かねばなりませんでした。とても暑く、道路も整備されていなかったので、足の皮がずるずると剥けました。川をいくつも渡りました。私たちはむち打たれながら川を渡りましたが、日本兵の中にはフィリピン人に肩車してもらっている者もいました。
その時、たまたま、姉のエメテリアと話せました。私が「お姉さん、何があったの?体じゅうにあざがあるけど、どうしたの?」と聞くと、「あなたはすぐに駐屯地へ連れて来られなくて良かった。私は大勢の日本兵からレイプされて、嫌がるとタバコや煮えたさつまいもを押し付けられたんだよ」と姉は答えました。その後、姉の精神状態はしだいに悪くなりました。
― 家は焼かれ、食べ物もなく
ある日、ゲリラとの戦闘のためか、逃げ出すためか分かりませんけれども、一気に日本兵の姿が見えなくなりました。その時、駐屯地の外に居たフィリピン人ゲリラたちが私たちを救い出してくれたのです。わたしは他の女性たちと逃げ出そうとしたのですが、姉のエメテリアは既に精神状態が悪く、なかなか動こうとしませんでした。私は無理やり彼女の手を引っ張って駐屯地から抜け出したのでした。
家のあった場所に着くと、家は焼き払われていました。私たちは近くにあったバナナの葉を寝床にして夜露を凌ぐ生活を始めました。二人の兄も後から加わりましたが、食べ物がなく、バナナだけの日も多かったのでした。
― たとえ一人になっても闘い続ける
戦争中に駐屯地で受けた女性の被害は、大変なものでした。レイプされるだけではなく強制労働をさせられ、ひもじい思いもしなければなりませんでした。私は、この身の上話をする度に涙が出て仕方がありません。この話をする度に日本政府に対する怒りも込み上げてきます。なぜなら、日本政府が今にいたるまで、日本兵が現地の女性たちに対して行った犯罪を認めていないからです。
皆さんが享受していたような楽しい時期を、私は全く経験する事ができませんでした。まだ何も知らない子どもの時にレイプされて尊厳を奪われ、父と母ときょうだいを失いました。日本の国民のみなさん、そして世界中のみなさん、ぜひ、私たちのこの正義を求める闘いに加わってください。私たちは、女性の尊厳を求めるこの闘いを続けなければなりません。私は、たとえ一人になったとしても闘い続けます。同志のバージニア・ビリャルマ(2015年に他界)がよく言っていますが、私たちは最後まで闘い続けなければならないのです。
― 今こそロラの声に耳を傾けて
今や、リラ・ピリピーナに所属する存命のロラは、ロラ・ナルシサを含めて9名となりました。ロラたちのなかで比較的「若手」だったロラ・ナルシサももう93歳です。筆者は1月末に約3年ぶりにロラ・ナルシサに再会しました。ロラの足取りはしっかりしていたものの、3年前よりもひとまわり身体が小さくなっており、時間の流れを痛感せざるを得ませんでした。
どうか一人でも多くにロラの声が届くようにと願って、今回の原稿を書きました。そしてミャンマーやアフガニスタン、ウクライナなど世界各地で女性が軍事性暴力や抑圧にさらされている今、私たちはロラの声に応答しなければならないと信じています。
〈参考URL〉
リラ・ピリピーナFBページ
リラ・ピリピーナウェブサイト
〈筆者紹介〉ふくだみちこ。「パマナ・リン・タヨ(PART)」設立メンバー。2013〜14年、フィリピンのアテネオ・デ・マニラ大学とコスタリカの国連平和大学の修士課程で「ジェンダーと平和構築」を学ぶ。アテネオ大在学中はリラ・ピリピーナの活動拠点でありロラたちのシェルターであるロラズセンターに下宿。卒業後もリラとの活動を継続し友人らとPARTを立ち上げた。
パマナ・リン・タヨ(PART)FBページ