【コラム】「慰安婦」サバイバー、ロラ・ヒラリアのこと

【写真】2016年1月、当時の天皇の来比に合わせて抗議行動を行うロラたち。メディアの取材も多数見られた=2016年1月27日、首都圏マニラ市大統領府前、福田美智子撮影

福田美智子(パマナ・リン・タヨ:Pamana Rin Tayo)

― 路上でもシェルターでも、日々活動を続けたロラ

 マニラ首都圏ケソン市に、慰安婦サバイバーの団体「リラ・ピリピーナ」の活動拠点「ロラズセンター」があります。ここはサバイバーであるロラたち(フィリピン語でおばあさんの意)がいつでも泊まることができるシェルターでもあり、30年近くにわたる活動の資料を保存するリソースセンターでもあります。筆者は近くのアテネオ・デ・マニラ大学に留学した2013年から2014年にかけ、このロラズセンターに8か月間下宿させてもらいました。今回は、その間に筆者が長く一緒に過ごしたヒラリア・ブスタマンテさんのことをお伝えしたいと思います。

【写真】長年の活動をたたえてアテネオ・デ・マニラ大学からロラたちが表彰式に招かれた。身支度が整ったロラ・ヒラリア=2012年8月13日、首都圏ケソン市ロラズセンター、柴﨑温子撮影

 

 1926年2月、マニラ市に生まれたロラ・ヒラリア(95)は、1943年から1944年にかけて被害に遭いました。数年前まではロラズセンターに長期滞在して抗議行動や証言活動に積極的に参加されていましたが、現在はカビテ州の自宅でご家族と過ごされています。
ロラズセンターではいつも、静かに座って手作業をしていたロラ・ヒラリア。リラ・ピリピーナの活動費捻出のために、ハギレを使ったカラフルな布巾を作っていることが多く、何時間も黙々と作業している様子にいつも驚かされていました。

【写真】ロラズセンターで手作業をするロラ・ヒラリア。できあがったものは「花丸ぞうきん」として日本の支援団体が販売している=2014年、ケソン市ロラズセンター、福田美智子撮影

 そんな、いつも穏やかなロラが証言する時は、目を見開き厳しい表情に変わります。その証言の内容はとても詳細で、年月が経っても凄惨な体験の記憶がいかに生々しく残っているのかが感じられました。ここに証言の書き起こしを一部引用します。

― 疎開中に日本兵に捕まり、駐屯地へ

 (バタアン州ヘルモサの)おばさんの家に疎開していた時のことです。ある日、田んぼでの作業を終え、料理をするために先に帰るとおばさんに言って、家に戻ろうとしました。歩いて帰る途中、日本兵が乗ったトラックが私の目の前で止まりました。そこから日本兵が三人降りてきて、二人が私に近寄りトラックに無理やり乗せようとしました。
 乗りたくなかったので抵抗すると、お腹を殴られて気を失いそうになりました。そして、そのまま二人の日本兵は無理やり私の手足をつかんで、まるで豚を放り込むようにして、トラックに乗せました。トラックは動き出し、どこに連れて行くのかと思っていると、ある検問所の横を通り抜けました。そこは日本軍の駐屯地でした。

― 叫んでも、泣いても、彼らはおかまいなしに続けた

 トラックは一時停止し、日本兵たちは誰かに挙手と礼をしました。それから駐屯地の中に入っていきました。トラックが止まると、日本兵たちは私を大きな建物に連れ込みました。ついて行くのが嫌でしたが、無理やり二階まで連れて行かれ、ある部屋に入れられました。
 まず一人の日本兵が私の両手をつかんで床に寝転ばせ、もう一人が私の両足をつかんで動けないようにし、残ったもう一人が私をレイプしたのです。レイプされている間、私はすごい痛みを感じました。その間も、日本兵は私の頬を叩いたり、ふとももを強く床に押し付けたりしました。それでも私は抵抗を続けました。一人が私をレイプし終わると、もう一人が私をレイプしました。私が大声で叫んでも、泣いても、彼らはおかまいなしに続けました。そうやって三人が私をレイプし終わると、部屋を出て行きました。
 部屋には他に三人のフィリピン人女性がいました。私は四番目だったのです。その後、毎晩のように彼らは私たちを順番にレイプし続けました。朝になると、日本兵は私たちに洗濯するよう命じました。食事も作らされました。私たちはそのような仕打ちに従うしかありませんでした。見張りの日本兵が私たちを四六時中、監視していたからです。駐屯地の周りは鉄条網で囲まれていました。何人かの日本兵がその周りをいつも警備していたので、誰も逃げ出すことはできませんでした。(後略、2014年8月18日アテネオ・デ・マニラ大学での証言より)

【写真】キャンパスを訪れたロラを囲んで話を聴く比人学生たち=2012年8月、マニラ市フィリピン大学マニラ校、福田美智子撮影

― 他のサバイバーに励まされて

 こうした日々が続いた後、戦況が変わって日本軍が撤退。部屋の外から鍵をかけられたまま残されたロラ・ヒラリアたちは、マカピリ(日本軍協力者)の比人男性に解放されて疎開先に戻りました。実家に帰ってからは母にだけ被害のことを話し、二人でひどく泣き合ったそうです。戦後、長くつらい記憶を抱えていたロラに転機が訪れたのは、やはり被害に遭っていた近所の友人に説得され、支援組織に出向いて名乗り出た時です。リラ・ピリピーナの他のロラたちと交流し、カウンセリングを受け、活動を続けるなかで、心に重くのしかかるものや、人に知られる恐怖感などが薄れていったと言います。

【写真】杖をつき、決然とした表情でデモに立つロラ・ヒラリア=2016年8月15日、首都圏パサイ市日本大使館前、福田美智子撮影

 とはいえ、記憶が薄れたわけでも傷が浅くなったわけでもありません。ロラがこれほど高齢になっても、捕まった時のことやレイプのありさまを克明に語るのを聴くと、その被害の残酷さと傷跡の深さに毎回愕然とさせられます。そして、ロラたちにこの過酷な証言活動を強いているのは、他でもない日本の私たちなのだと自覚せざるを得ません。

【写真】最近のロラ・ヒラリアのようす。ご家族が、ビデオメッセージを撮影してオンラインイベントのために送ってくださった=2021年11月、カビテ州のロラの自宅にて撮影したビデオのスクリーンショット、リラ・ピリピーナ提供

〈参考〉
リラ・ピリピーナfacebookページ

〈筆者紹介〉
福田美智子
「パマナ・リン・タヨ(PART)」設立メンバー
 1999年よりNPO法人長崎人権平和資料館のボランティア/理事として日本の植民地・戦争責任の問題に関わる。2013〜14年、フィリピンのアテネオ・デ・マニラ大学とコスタリカの国連平和大学の修士課程で「ジェンダーと平和構築」を学ぶ。アテネオ大在学中はリラ・ピリピーナの活動拠点でありロラたちのシェルターであるロラズセンターに下宿。卒業後もリラとの活動を継続し友人らとPARTを立ち上げた。

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