岡田薫(元まにら新聞記者)
今から3カ月ほど前、以前住んでいた地区で顔見知りだった道端の唐揚げ屋さんのおじさんが亡くなった。何でも排尿できなくなる病気で苦しんでいたのだと後から聞いた。自宅と呼べる家もなく、家族もいない。ゲイで年配者の彼は相方の男性とリヤカー式の店舗の裏で寝泊まりしていた。亡くなった時の写真を見せてもらうと、全身どす黒くなり、誰とも判別できない程ガリガリに痩せてしまっていた。日本だったらそこまで悪化するのを待つまでもなく、病院に通う方法もあったかもしれない。マルコス大統領は7月28日、第4回目の施政方針演説の中で、長年部分的な施行に留まっていた国民皆保険制度「ユニバーサル・ヘルス・ケア(UHC)法」、その要である患者負担ゼロ制度(Zero Balance Billing:ZBB)政策の実施強化に触れた。
この政策は、保健省が認定する病院であれば、通常の食事の提供、共同部屋のベッド、扇風機、トイレと浴室の使用、検査費用や手術費用、病院内の薬局で入手可能な薬品など、入院中の自己負担金が全額免除されるというものだ。また、利用可能なベッドがなく、他の施設への転送が不可能で、やむなく別の部屋に入院した場合には、「サービスや治療代、および設備に対して自己負担はないものとする」と規定されている。
― 画期的な制度と言われるも・・
社会的地位や年齢、職業に関係なく「すべての国民が自動的に含まれる」というところが、従来の限定的なサービスに留まったフィリピン健康保険公社(フィルヘルス)が提供する国民保険制度、そして高価な民間医療保険の隙間を繋いで、画期的なものだと言われている。2024年5月時点で、フィルヘルスの入会会員数は5036万人、そのうち直接加入者は3700万人、間接加入者は1336万人。扶養家族を入れると8722万人をカバーするとしている(Confused about the zero-balance billing policy? Here’s an explainer., | Philstar.com, Augut 2, 2025.)。
だが、冒頭の彼は、こうした数字から漏れてしまったおよそ2000万人の内の一人だ。加入するには月に1万ペソの収入であれば500ペソと、給与の5%を納める設定になっている。給与が低ければその分必要経費の捻出は難しくなるだろう。500ペソでも惜しいものだ。そうした収入にも届かない貧困層には貧困家庭向け条件付き現金給付プログラム(4Ps)と呼ばれる社会福祉開発省による制度があり、子どもの学費など生活費の一部が支援されるが、フィルヘルスも4Psの受給者を間接加入者向けの枠を設けている。ここには貧困家庭に加え、高齢者、障がい者も連なる。
それでも決まった家もなく、扶養家族にも入らない、間接加入者にも認められない者が、この国にはごまんといる。フィルヘルスは貧しい層に質の高い医療アクセスを提供する崇高な目的を持つはずだが、最貧困層の64%が加入していないといった研究もある。交通費や病院へ行くために失われる賃金も惜しい。そもそも「収入の2%しか医療に充てる余裕はない」とされる最貧困層こそが、その恩恵を十分に活用できていない実態がある。やはり完璧な制度からは程遠い。
― ユニバーサル・ヘルス・ケア、その特徴
とはいえ、「皆」が待ち焦がれていた制度だ。どういった特徴があるのだろう。実はこの方面には疎いので、ユニバーサル・ヘルス・ケア(UHC)法(共和国法第11223号)の施行細則にも目を通し、多少調べてみた。
まずZBBが適用される保健省の行政・予算管理のもとにある病院は、全国に87カ所あるとされる。まだそれだけしかないのか、と驚くところだ。そうした中で首都圏ケソン市は恵まれている。保健省所轄ではないにも関わらず、同省が理事会に名を連ねる、フィリピン心臓センター、肺センター、国立腎臓研究所、フィリピン小児医療センターの4大病院がZBB適用施設に含まれているからだ。ZBBを希望しながら、フィルヘルス未加入の患者は、病院内にあるフィルヘルス窓口などで登録が可能だという。しかし本来入院するには過去3カ月の支払い義務があり、遡及制度が働いているようだ。要するにこうしたお金が工面できない人はサービスからこぼれ落ちる可能性があると言える。また、病気はしばしば突然やってくるが、急患病棟で行われる処置は対象外だ。そうした患者は外来扱いとされ、ZBBが適用されない。代わりにフィルヘルスの「外来救急ケアパッケージ」というものがあるようだ。さらに退院後の外来サービス(健康診断、検査、がんスクリーニングなど)や一部の処方薬は、フィルヘルスが扱う別のパッケージがカバーする範囲だという。
フィリピンの医療制度は、数十年にわたる問題の蓄積と課題に悩まされてきた。最貧困家庭の子どもは、最も裕福な家庭の子どもと比べ、5歳の誕生日までに亡くなるケースが4倍に及ぶとの過去の調査もある。医療費や医薬品は高額で、入院や慢性疾患が経済的に家庭の破滅を容易に引き起こすことから、病気によって貧困が再生産されてきたともいえる。特に都市部から遠い地域では医療施設が少ないことも、貧困層の医療アクセスの欠如につながっている。
― 国民保険制度の変遷、UHC遅延の根本原因は
UHC法は、「最貧困層が医療にアクセスするための手段」として、世界保健機関(WHO)によって推進されてきた経緯がある。1999年のエストラダ政権時代に「医療部門改革アジェンダ」が策定され、医療への限定的な政府介入が進められた。続くアロヨ政権では、フィルヘルスが医療の中心的役割を担うようになった。2010年のアキノ政権になって「Kalusugang Pangkalahatan(ユニバーサル・ヘルス)」プログラムの下、ようやくUHCモデルが採用され、ドゥテルテ政権下の2019年にUHC法が公布されるに至った。そこを新型コロナが襲い、「表向き」は遅延が続いてきた。
UHCモデルは、財源の調達元やその一部投資、見直し・評価基準、違反病院への罰則など、フィルヘルスの在り方そのものを変える大規模な医療改革だ。それを行うにあたって、政府の準備不足が一番の問題点として挙げられる。フィリピンでは近年は年間3万6000~7000人台の看護師が誕生しているが、12万7000人もの不足が生じているという(PH faces shortage of nurses, solon warns – Manila Standard, January 2, 2025)。公的医療機関の資金不足を背景とした、看護師の海外流出は止まらない。2021年時点ではフィリピンには人口1万人あたり7.92人の医師しかおらず、理想的な人口比である1万人あたり10人を下回っているとの数字もある。これらの人材不足は、医療プログラムの最適な実施を妨げ、人々の基本的な医療サービスへの受診を阻害している。
ドゥテルテ政権下の2020年に、フィルヘルスの大規模な汚職が表ざたとなったのも比較的記憶に新しい。新型コロナ禍に対処するために実施されていた「暫定償還メカニズム」(IRM)が悪用され、フィルヘルス幹部による着服が150億ペソに上っていたことが上院で厳しく調査された。最終的にフィルヘルス総裁の辞任と、幹部に対する訴訟の提起につながった。また、UHCのような国の医療制度にとって重要な改革には、それを機能させるために多くの新しい規定と遂行能力が必要とされる。そのため、医療従事者への研修プログラムや能力構築に向けたアクティビティーが重要となってくる。しかし、これらの研修の多くは無料ではなく、一部を自己負担しなければならず、高額な研修費用もUHC実施への抑制要因となってきた。
さらに、根本的な問題として、フィルヘルスのあり方が挙げられる。医療サービスが「市場商品」として扱われる媒介役として、フィルヘルスはその性格上、病院や検査機関、製薬会社を富ませる役割を担ってきた。WHOそのものも貧困層と富裕層の間に横たわる医療格差の根本解消を目指しているとは言い難い。
― フィルヘルスとの関り方、ある家族の例から
ビサヤ地方パナイ島出身の海外フィリピン人就労者(OFW)歴が長い40代の女性に、家族・親族内でのフィルヘルスの普及具合について、中東から帰国したタイミングで尋ねた。まずUHCについては前向きに捉えていた。マニラ首都圏で雇用されていた2009年以前までは、フィルヘルスに加入していたが、OFWになってからはずっと未加入の状態にあったという。その理由は「海外で病院に行くこともなかったため」で、「何かあればOWWA(海外労働者福祉局)がサポートしてくれるから」と移民労働者省がセーフティネットとなり得ることを明かした。ただOFW向けには、フィルヘルス加入費が割引されるなど、数々の特典があることは知らなかったようだ。2年程前から、パナイ島の町役場で雇われている夫のフィルヘルスに「扶養家族」として二人の間の一人娘である「次女」と一緒に入っている。同女性にはその前の同棲相手との間の大学生になる長女もいるが、長女は次女の父親の扶養家族には入れないため、「私が直接加入者にならない限り、カバー対象にはならない」との認識を示した。
また中東で出稼ぎをしている弟、パナイ島内で働く20代の弟とその同棲相手の女性も、それぞれがフィルヘルスに直接加入している。一方で、マニラ在住の妹と弟は定職がなく未加入とのことだった。今年だったが、同女性の同棲相手の高齢の母親が病気で入院した際、子の扶養家族であったことから、フィルヘルスが効いて約5万ペソもの入院費が無料になったとのこと。OFWの仕事が滞るとあちこちに借金をして途端に貧しくなるが、全人口に見る加入者数と比して、彼女の一家からその縮図が理解できる。「国民皆保険」と言っても、文字通り現状の制度では、全体をカバーすることができていない。この女性から見えたのは、複雑な家族構成も、一定数のブラインドスポットを生む一つの要因かもしれないということだ。
政府の本気度には疑問を覚えざるを得ない。社会から「貧困が一掃され」、かつ「正常と見なされる家族」にしか機能しない仕組みになっているからだ。現状からさらに一歩踏み込む必要性を感じていないようなら、そこには何らかの利益構造があるからだ、と考える方が自然かもしれない。