連載【まにらから】アイリーン・カーン氏の報告書に寄せて

【写真】(左)国連特別報告者アイリーン・カーンが政治囚訪問/via Philippine media groups hail Khan’s visit to detained journalist, LiCAS news, January 29, 2024.(右)フィリピンでの実態調査を終え、帰国前の記者会見で記者に囲まれる国連特別報告者のアイリーン・カーン氏(黄色ジャケット)=2024年2月2日,首都圏マンダルーヨン市,岡田薫撮影.

岡田薫(元まにら新聞記者)

「意見および表現の自由に対する権利の促進と保護に関する国連特別報告者」(表現の自由特別報告者)であるアイリーン・カーン氏による「フィリピンを訪ねて」と題した報告書が、この6月4日に公開された(A/HRC/59/50/Add.1)。これは約一年半前の2024年1月23日~2月2日にマニラ首都圏やバギオ市、セブ市、タクロバン市(レイテ)での実態調査で、第59回国連人権理事会に提出された最終報告書の一部だ。面会後のフィリピン国家人権委員会は当時、「フィリピンの報道の自由、表現の権利とデジタル通信へのアクセスに関わる状況、それらを取り巻く法律の確認、それによって社会から疎外された人々を含むセクターが被っている影響などについて話し合いを持つこと」にカーン氏の訪問目的があるとしていた。それらが反映された内容となっている。

カーン氏については、当時まにら新聞で取り上げ、紹介している。バングラデシュ人のカーン氏は、ハーバード大ロースクールを卒業し、1980年に国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)に就職。2001年に国際人権擁護団体アムネスティ・インターナショナルの第7代事務総長に初の女性、初のアジア系、初のイスラム教徒として就任した。20年8月1日から、意見および表現の自由に対する権利の促進と保護に関する国連特別報告者(表現の自由特別報告者)を務める。同役職に就いた初の女性でもある。カーン氏のフィリピン訪問に先立ち、人権擁護団体が市民社会の抱える窮状を積極的に発信するなど、大きな期待が掛けられていた。直前の2024年1月16日には首都圏ケソン市で報道機関や芸術家、風刺漫画家、教育者らが記者会見を行い、「これは、比政府の招待を得ての『公式』」訪問だとの見方も示された。来比に合わせて、カーン氏には農民や労働者、教員、医療従事者、宗教、人権など40もの団体が報告書を提出している。

さて、待ちに待った報告書だが、その冒頭でカーン氏は、異を唱える者やメディア関係者や市民社会の担い手に対し、公然と侮辱や脅迫を行ったロドリゴ・ドゥテルテ前大統領との対比で、現マルコス大統領が「より開かれた寛容な姿勢を採用している」と、政権自体に前向きな評価を行っている。その一例として、ノーベル平和賞受賞者のマリア・レッサ現ラップラーCEOがドゥテルテ政権下で訴えられていた複数の裁判が棄却されたこと、ドゥテルテ政権下から約7年間収監されてきたレイラ・デリマ元上院議員の保釈が現政権下で認められたことを挙げた。これは現政権の「努力」とは言い難いが、「風向きが変わった」ことが、より正常な判断を下し易くしたに違いない。続けてカーン氏は国際的な視点として、現政権下では発足後の18か月間に3人の特別報告者を迎えており、過去22年間の10人に比して、「顕著な変化だ」としている。2025年3月のドゥテルテ氏逮捕、ハーグの国際刑事裁判所への移送を、「フィリピンにおける過去の人権侵害に対する不処罰に取り組む上での大胆な一歩」とも評した。

「表向きには」招待者のフィリピン政府の耳をくすぐる内容に聞こえるが、3分の1を過ぎた辺りからフィリピンの「表現の自由は、依然として国際基準と一致していない」とトーンが変わる。カーン氏は、その訪問中に「赤タグ付け」(共産主義など特定のイデオロギーとの結びつけ)の標的にされたと主張する何十人もの人々と面会したこと、直接耳にした報告をもとに「誹謗中傷や嫌がらせ、恣意的な拘束、強制失踪、そして27人の殺害(うち8人は赤タグ付け被害者)に関する申し立てを受け、政府に対し懸念を表明した」と述べた。赤タグ付け後に殺害された人権擁護者は、ドゥテルテ前政権下で427人に及ぶとの市民団体の統計も伝えた。この死を呼ぶ赤タグ付けについては、前政権が2018年12月に設置した「共産主義勢力との武力紛争を終わらせる国家タスクフォース」(NTF-ELCAC)が扇動元であること、国軍や国家安全保障関係者、政府高官、そして一部メディアが関与していることを問題視した。

また、カーン氏はタクロバン拘置所で、地域のジャーナリズム、環境報道、人道支援活動に携わっていた3人の若者と面会していた。アビングナさん、クンピオさん、ドメキルさんの3人は市民活動への参加がもとで赤タグ付けに遭い、「フィリピン共産党または新人民軍(NPA)と関係している」とみなされ逮捕・拘束された。逮捕から1年後には銃器、爆発物などの所持に関する新たな容疑をかけられ、保釈不可とされた。いずれも独立した立会人がいない中で行われた1年も前の捜索時に、銃器などがベッド上で「見つかっていた」とされている。ジャーナリストのクンピオ氏に至っては、最近になって2件の「身に覚えのない」殺人罪の容疑も加えられた。カーン氏は「赤タグ付けの標的となった人々が被る多大な犠牲と、救済の余地がほとんどない不完全な制度を浮き彫りにしている」として、現在20代半ばを迎えた3人への5年間の理不尽な勾留を非難した。

そのうえでカーン氏は、タクロバンの事例を「赤タグ付けに関連する事件に共通する広範な傾向の象徴である」と位置づけ、司法手続きの遅延、予審拘禁の期間が事実上の有罪判決と同等になるほど長期化している点、逃亡の恐れがないにもかかわらず保釈が認められない点を指摘した。さらに「でっち上げられた容疑が後に裁判所によって棄却される場合でも、事件の処理が極端に遅いことは、司法の茶番劇とも言える状況を生み出している」とし、「無実の者が有罪の者と同列に扱われてしまう」と言葉を強めた。カーン氏が一年前に発したという質問に対し、フィリピン政府がいまだ返答していないという事実に「事件の解決に対する政府の緊急性の欠如が表れている」と畳みかけた。

こうした状況下でも、最高裁判所は2024年5月、「赤タグ付けや誹謗中傷、ラベリングが個人の生命、自由、安全の権利を脅かす可能性がある」と認定し、そのような状況では人身を保護する「アンパロ令状(writ of amparo)」の発行が正当化され得るとの判決を下した。また同年12月には、ケソン市地方裁判所が、報道ジャーナリストのアトム・アラウロ氏に対する赤タグ付けが、「評判や職業的能力に悪影響を及ぼし、言論の自由の権利を侵害した」との判断を下した。これは、民事訴訟で赤タグ付けが有害行為として初めて認められた事例となった。この2つの判決は、表現の自由を守るために司法が果たす重要な役割を示すものであり、人権保護における前向きな姿勢を映し出している。カーン氏によると、政府は政治的状況の変化を踏まえ、「NTF-ELCACを平和構築の組織へ変革することを検討している」が、「廃止を検討すべきだ」と提言した。

カーン氏の報告書を受けて、大統領報道安全対策本部(PTFOMS)は6月18日、「報告書を歓迎する」との声明を発し、「国連ジャーナリスト安全行動計画の採択、PTFOMSの設立、最近の法的改革など、政府による肯定的な取り組みを認めている」とカーン氏が褒めた面を強調した(Statement In Response To Irene Khan’s Report On Media Freedom And The Issue Of Impunity, Journal online, June 19, 2025.)。一方で、「ジャーナリストへの攻撃、捜査の遅れ、中傷キャンペーンなど、表現の自由および報道関係者の安全を引き続き脅かす課題が残っている」とは認めたものの、「過去21年間で最良の順位を達成した」、「2024年には過去20年間で初めてメディア関係者の殺害が報告されなかった」と喧伝した。

カーン氏は報告書内で、マルコス政権下では4人のジャーナリストが職務に関連して殺害されており、1件で真犯人が特定されたこと以外、捜査に進展がない点、過去30年間で国内のジャーナリスト117人が命を落としており、うち10件しか解決していない点を挙げているが、そうした負の側面への言及・認識はない。結局、「我々は、アイリーン・カーン国連特別報告者の洞察と提言に感謝し、人権、報道の自由、法の支配に対する揺るぎない取り組みを維持していく」と結んでいるが、表層的とはいえ、こうした言葉を言えることが、ドゥテルテ政権との違いかもしれない。 しかしそうした政府の声明から5日後の6月23日、ミンダナオ島ジェネラルサントス市で元ラジオキャスターのアリ・マカリンタルさんが何者かの銃撃で殺害されている。現実は何も変わらないという事の証左だろう(PTFOMS Monitoring Probe into Killing of Former Radio Broadcaster in General Santos, ACTION BALITA, July 4, 2025.)。

カーン氏訪問の終盤、国連事務所の一室での記者会見には60人以上の記者が詰めかけ、熱気がすごかった。どこかもの静かな印象ながら、丁寧な英語で緻密に言葉を選ぶ姿に、誠実さが溢れていた。NTF-ELCACについて「存在そのものがすでに時代遅れ」だとし、廃止と赤タグ付けを糾弾するよう大統領令の発令を勧告した。さらに同機関の廃止によって、「赤タグ付けが引き起こす最も重大な要因への対処に留まらず、現政権の政治情勢の変化に基づいた平和構築へのアプローチ刷新が可能となる」とも語っていた。もはやドゥテルテ政権の亡霊であるNTF-ELCACだが、マルコスが廃止に動かない背景には、自身への批判者にも赤タグ付けが「口封じ」として有効に機能していると思い込んでいるからだろう。事実、国家安全保障会議のジョナサン・マラヤ事務局長補は当時、自身が広報官を務めるNTF-ELCACの功績を強調し「廃止に適切な時期ではない」との認識を示した。「NPAへの戦略的勝利と、共産党との和平交渉の2点を考慮すれば、NTF-ELCACは対テロの闘いでのゲームチェンジャーだった」と称賛。カーン氏による廃止勧告は、政府内でまだ「初期勧告」と見なされており、将来的な転換の可能性に政権はオープンとの姿勢も示した。

カーン氏帰国後まもなくの2月13日、西ネグロス州サンカルロス市の拘置施設で、収監中のサトウキビ労働組合員の夫と面会するために訪れていた女性(55)が所持品の検査中、刑務所職員らから「バッグに拳銃があった」として、手にした拳銃を見せられた。女性は「身に覚えがない」と主張したが、その場で逮捕されたという。その日は夫の誕生日で、子どもたちを伴って来所していた。この女性は、カーン氏に夫の事件について説明を行っていた。夫は2019年9月に他の組合活動家7人とともに、過去にサトウキビ労働者が虐殺されたエスカランテ虐殺事件に関する記念集会の準備や参加を呼び掛けていた際、身に覚えのない銃器や爆発物所持で逮捕されたという。

国民と本来はその「保護者」であるべき政府双方を利する未来発展的な提言を行っているカーン氏の親切心をマルコスは理解していないのだろうか。過去(ドゥテルテ)との決別、差異を生む政治機会を今最も欲しているのはマルコス自身だろう。「為政者の鶴の一声にかかっている」と委ねたカーン氏の言葉が泣いている。

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