福田美智子(パマナ・リン・タヨ:Pamana Rin Tayo)
今回のコラムでは、大統領選挙後のフィリピン市民社会の空気感をお伝えできればと思います。
このコラムで紹介しているフィリピン人「慰安婦」サバイバー団体のリラ・ピリピーナのメンバーの多くは、他の多くの市民団体と同様、大統領選ではロブレド候補(前副大統領)を支持していました。リラ・ピリピーナは日本政府に対し、一貫して①公式な謝罪、②法的な補償、③歴史教育(「慰安婦」の歴史的事実の教科書への記載)を求めてきました。同時に、高齢化する「慰安婦」サバイバーのロラ(おばあさん)達の生活・医療支援、国内での教育活動や政治への働きかけも行ってきました。しかし、これまでの歴代政権はいずれの点でもロラ達をサポートすることはなく、解決済みとの立場を崩しませんでした。それどころか、ドゥテルテ前政権は、市民団体が建立した「慰安婦」像を撤去するなどしました。
こうした背景から、リラ・ピリピーナは歴史問題に取り組む市民団体タンゴル・カサイサヤン(Tanggol Kasaysayan)と共に各候補に「慰安婦」問題への取り組みについて問う書簡を送付し、これに対し、ロブレド候補は以下のように返答していました。
― ロブレドの「慰安婦」問題へのコメントをどう見る?
「(前略)私達の歴史の真実を再確認する点において、私はあなた方と共にあります。今日、私達はフィリピン人「慰安」婦の勇敢さとレジリエンス(立ち直る力、強靱さ)を記憶しています。というのもあなた方が現在のニーズに対応し、ともに分かち合う未来を見すえ、正義―過去の過ちを認識した上で築かれた正義―のための闘いを続けてこられたからです。
私の大統領としての計画には、国際社会の同盟国との、継続的でオープンな、信頼に足る対話が確実に含まれることになるのでご安心ください。私達の教科書、カリキュラム、教育システムは、他ならぬ事実に基づいた現実によって主導されることになるでしょう。そしてその事実とは、戦争の恐怖と、慰安婦を含むわが国の人々が侵略のくびきの下で耐え忍ばねばならなかった辛苦を含むものです。
私と副大統領の事務所は、全てのフィリピン国民のためによりよい世界--全ての人々が尊厳をもって生きられ、誰も取り残されない、真実と正義に基づく世界--を築くため、あなた方とともに闘いを続けます。」(翻訳筆者)
この書簡について、リラ・ピリピーナのコーディネーター、シャロン・カブサオ=シルバさんはこう評価します。「注意深く読むと、『慰安婦』問題に触れられたくない日本との関係に配慮して、バランスを取ろうとしていることがわかります。それでも彼女は他の候補よりずっと良いけれど」。確かに、サバイバーへの共感や歴史的事実の重視などが綴られながらも、具体的なロラ達への支援策や外交努力のプランが書かれているわけではありませんね。
― マルコス不支持の市民の深い落胆
ロブレド支持者の熱気は相当なものでしたが、結果はボンボン・マルコス(元上院議員)の勝利。新政権下でどのような見通しを立てているのか、シャロンさんに話を聞いてみました(インタビュー日:2022年7月17日)。経験豊かな活動家のシャロンさんからは力強い言葉が聞けると思いきや、その予想ははずれました。まだ落ち込みムード、結果を受け入れられない気持ちから抜け出せないでいるというのです。これはリラ・ピリピーナに限ったことではなく、非マルコス支持者に広く共有されている気分で、若いロブレド支持者の中には意気消沈して引きこもり気味になっている人もいるとのこと。そのため、まとまって反マルコスの運動を盛り上げていこうとする動きはまだゆるやかなのだそうです。
ロラ達もこの結果は受け入れがたいようです。首都圏マラボン市に住むロラ・エステリータ・ディと、首都圏に隣接するリサール州アンティポロ市に住むロラ・ナルシサは、「マルコスは私の大統領ではない!投票してない!」と断言。シャロンさんは、「ボンボン・マルコスよりも政府高官に働きかけることを考えているけど、まだ決まっていないポストもあるから動けないし、そもそも当のロラが認めていない大統領に対して、大統領府でデモしたり、声明を出したりできないでしょ(笑)」と。他にも、下院議会は与党議員で占められるなど、立法化への働きかけといった政治分野での活動は難航が予想される状況です。
― 市民社会を覆う恐怖と不安
ドゥテルテ前政権と、その政治を引き継ごうとするマルコス新政権の誕生は、人々に落胆ばかりか恐怖感も植え付けているようです。例えばボンボン・マルコスは、父のフェルディナンド・マルコス・シニア政権がつくった「Bagong Lupunan(新社会運動)」という戒厳令を賛美する歌を今回の選挙キャンペーンでしきりと流していました。こうしたこともマルコス独裁時代のトラウマを抱える人には堪えているとか。「ボンボンは父親とは違う、あれほどのことはしないだろう」という楽観的な見方もある一方、サラ・ドゥテルテ副大統領が力を持ち、厳しい人権侵害が起きることを心配する人も少なくないそうです。
こうした心配は気に病みすぎとは言えなさそうで、シャロンさんによれば、ドゥテルテ前政権下で活動家らを赤タグ付けし攻撃してきたNTF-ELCAC(「地方共産党の武装闘争を終わらせるための国家タスクフォース」)が、今でも潤沢な予算に支えられて活動を続けているといいます。「明らかに間違った情報でも、何度も繰り返して発信することで人々に信じ込ませるのがELCACのやり口」とシャロンさん。最近は個人ばかりでなく団体も標的になっているようです。
― それでもロラ達とともに
こうした話を聞きながら暗い気持ちになりましたが、やはりシャロンさんは立ち止まったままでいる気はありません。「リラ・ピリピーナは今年の6月25日で28周年を迎えました。今年も8月14日(国際的な日本軍「慰安婦」メモリアルデー)か15日(終戦記念日)に向けて何らかのアクションを計画するつもり。この状況で活動して何になるというシニカルな声もあるけれど、今後、国際社会でどんな変化があるかわからないし、希望を失いたくないんです。ロブレド支持者達もこれから活動を始めたら政治的なランドスケープは変わってくる可能性もあると思いますよ」。
リラ・ピリピーナは対外的な活動の再始動を模索しつつ、「慰安婦」サバイバーのロラ達への支援はずっと続けてきました。現在は首都圏とその周辺州とパナイ島にいるロラ9名と連絡を取り合い、支援を届けるなどしています。届ける物資はお米、ビタミン剤、成人用粉ミルク、おむつ、医薬品などです。コロナ禍により家族全員が失業状態になったロラもいるなど、生活は厳しく、支援は貴重です。しかしフィリピンでも燃料や物品の値上がりが激しく、支援するリラ・ピリピーナにも負担がかかっています。比中央銀行は2022年6月のインフレ率について前年同月比で6.1%としており、シャロンさんの感覚では今年の1月から比べると食品類の価格は15%以上高騰しているとのこと。
この状況では、高齢のロラ達の医療支援もままなりません。研修医のグループがボランティアでロラ達の健康状態をチェックしてくれているものの、ロラの家庭の経済事情が厳しく、それ以上の医療が必要でも費用の捻出ができずにいるようです。
このようにフィリピンでの「慰安婦」サバイバーの運動を取り巻く社会環境も、またロラの生活と健康のケアも非常に困難な状況にあります。筆者のグループPamana Rin Tayoとしても、これまで行ってきた日本の若い世代向けの教育活動に加え、直接ロラ達の支えになるような活動を考えなくてはならない段階にあるようです。
〈Source〉
(リラ・ピリピーナFBページ)https://www.facebook.com/lilapilipina1992/videos/?ref=page_internal
(タンゴル・カサイサヤンFBページ)https://www.facebook.com/TanggolKasaysayan
<筆者紹介>
福田美智子
「パマナ・リン・タヨ(PART)」設立メンバー
2013~14年、フィリピンのアテネオ・デ・マニラ大学とコスタリカの国連平和大学の修士課程で「ジェンダーと平和構築」を学ぶ。アテネオ大在学中はリラ・ピリピーナの活動拠点でありロラたちのシェルターであるロラズセンターに下宿。卒業後もリラとの活動を継続し友人らとPARTを立ち上げた。